はじめに
野村医院の創始者・初代院長である千太郎について語る時が来た。
彼は、明治27年に大阪府立医学校を卒業し、同30年に野村医院を開業した人である。
まずは、彼の肖像写真をご覧いただきたい(写真は、野村栄作さん所有)。
おそらく40歳代後半、大正年間に撮影されたものか。
撮影者は、隣村、月ケ瀬村(現・奈良市)桃香野の井尾写真館(大正4年創業、現在廃業)である。
傑出した人格が溢れ出ており、とても聡明な人だったことが窺える写真だ。
曾孫の私などは、怠け者だから、威圧されてしまうくらいだ。
そんな彼のことを、ずっと記録に留めたいと思いながらも、果たせずにいた。
情報が少なかったからである。
それを埋めることできたのは、医史学会関西支部長・猪飼祥夫先生のおかげである。
実は、令和5年4月に、オールドクリニックにおいて、「開院125周年記念講演会」と銘打ち、猪飼先生を招聘し、「江戸時代から明治の医学 -野村千太郎先生の軌跡から-」と題する講演をしていただいた。
当日は、村の内外から多くの人が集い、猪飼先生の話を聴きながら、野村医院の昔に想いを馳せて下さった。
講演内容は、猪飼先生が独自に調査して下さったもので構成されており、子孫である私達が知らないことが沢山含まれていた。特に空白部分だった大阪府立医学校在学から開業までの期間に関して、多くの情報が盛り込まれていた。
本稿は、猪飼先生の講演で賜った資料と情報が元となっている。
これがなければ、若かりし頃の千太郎像を語ることはできなかった。
この場を借りて、猪飼祥夫先生に、深い感謝の意を表します。
生い立ちから、医学校入学まで
出生
野村医院の創始者・千太郎は、明治2年1月12日、奈良家山辺郡春日村(現在の、山添村春日区)の井戸家に、父・定治郎、母・ヨネの次男として生まれた。兄・定四郎、姉・ハル、妹・チヨの四人兄弟であった。
後に発刊された、「人物誌第二編」には、彼について、次のような紹介文が掲載されている。
この記事は誤りが多いが、彼の人生の7割を簡潔に紹介しているから、そのまま引用する。
(誤記をアンダーラインで印しておく)
山邊郡波多野村大西 醫師野村千太郎氏 氏は明治二年二月拾六日を以て仝村春日井戸定四郎氏の二男に生れ、医師たるべく大阪に出で明治二拾七年現 大阪醤科大學を卒業し大西村の野村家に養子となる、 後ち大阪府立病院にて内科小児科受持の医員として實地研 究の功を積み、明治廿九年拾一月歸村自宅に開業し今日に至る、資性温厚にして熱心患者の氣受け頗るよく常に 門前市を爲すの盛況を示しつゝあり、村医、校医して二拾有年間盡され一般の信望厚く常に盆栽を楽しむ。
この生年月日(オレンジ色)は誤りである。戸籍は、明治2年1月12日生まれとなっている。二つ目のアンダーライン(黄色)の、「大阪醤科大學」は大正8年からの呼称であり、卒業当時は大阪府立医学校という名称であった。「現」としているから、この記事は大正8年以降に書かれたものと判断できる。
また、卒業してすぐに養子になったと記しているが、そうではないと考えている(後述)。三つ目のアンダーライン(青色)について、開業時期も誤記である可能性が強い(後述)。
小学校の代用教員?
残念ながら、千太郎の幼少から医学校に入るまでの情報は、今も乏しい。
彼の故郷・春日村には明治初頭から、不動院の末寺の建物を修理して仮校舎にした陳誼館(ちんぎかん)という小学校があった(波多野村史855ページ)。明治2年生まれの千太郎は、おそらくここに学んだことであろう。
春日村を中心として畑(はた)の里は、当時から教育熱心な地域であったから、陳誼館に尋常高等小学校も併設されていたかもしれない。
中学校のことは、分からない。
一説には、青年期に小学校の代用教師をしていたと言われている。
それは、この陳誼館小学校だったかもしれない。
後述するように、彼は、18歳か19歳で中学校を卒業し、大阪府立医学校予科に20歳で入学したと考えられる。
それまでの1年か2年間を、故郷の小学校で教員をしていた可能性はある。
この期間に、医学校の受験勉強に充てていたかもしれない。
久保直次郎に勧められ、医師を目指した
同じ春日村に、後に波多野村第二代村長となる久保直次郎がいた(波多野村は、明治22年に成立)。
(昭和50年代に山添村々長を務めた久保光之助氏の祖父)
波多野村史によると、直次郎は明治30年5月~39年10月、および、大正3年5月~6年12月まで、村長を務めた人である。
その人から、若くて優秀な井戸千太郎に「医者になれ」と諭されたという。
現在の山添村立山添小学校の敷地に、明治36年に落成した旧波多野村立春日小学校があった。
波多野村が成立すると、立派な小学校を作ることが、新しい村の最大の課題だった。
なぜなら、明治時代のこの頃、国中の小さな里(村)が合併していくのは、「行政上の目的に合った規模の自治体にしていく」ことを目的とされていて、それは、小学校の適切な通学圏をひとつの目安にしていたのだった(明治の大合併政策)。
当時の人は、まるで熱に浮かされたように、どこの村でも、我が村の小学校造りに熱心に取り組んだのである。
明治時代というのは、本当にすごい時代だったと思う。
合併までに、波多野村には、春日、菅生、遅瀬、広瀬などに小規模の小学校が存在した。
この合併を機に、春日と広瀬のふたつにまとまっていくのであるが、土地の選定、造成、校舎建築に、新村の年間予算の何倍もの費用と10年以上の年月を要し、春日小学校は明治36年にようやく竣工したのだった。
その校舎はすでに存在しないが、当時の講堂だけは、現在も歴史民族資料館として、その形を今に遺している。
私の場合(昭和38年に入学)、入学式も卒業式もこの講堂だった。
資料館入口横に、村民の力を結集して小学校を建てた久保直次郎の功績をたたえた顕彰碑が、立っている。
参考までに、現山添村の成り立ちを、概説する。
●明治22年、波多野村の成立
明治のこの時期に市町村制が施行され、小さな村々(江戸時代から引き継がれた自然集落)が、国を整備して行政がやり易くなる規模の自治体を目指して合併した。これを「明治の大合併」という(総務省のHPから)。
私達の山添村では、現在も「大字」と呼ばれている里山が、当時「村」であったが、畑十四ヶ村(春日、大西、菅生、西波多、嵩、遅瀬、中峯山、広代、中ノ庄、吉田、広瀬、鵜山、片平、葛尾)を合わせて新村を組織した。これが波多野村の誕生である。
●昭和31年、山添村の成立
昭和のこの時期に、こんどは、戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防や自治体警察の創設の事務、社会福祉、保健衛生関係の新しい事務が市町村の事務とされ、行政事務の能率的処理のためには規模の合理化が急務とされ、町村合併促進法および、新市町村建設促進法によって市町村の多くが合併した。これを「昭和の大合併」という(同上)。
私達の山添村は、上述の波多野村と隣接した豊原村(山辺郡)と東山村の一部(添上郡)が合併し新村となった。これが山添村の誕生である。
●平成の大合併
平成10年前後にも、多くの自治体が合併した。記憶に新しい「平成の大合併」である。山添村は、奈良市や天理市との合併の協議を進めたものの、住民投票によって、一村独立の道を歩むことになり、現在に至っている。
20歳で医学校予科に入学
明治20年頃は、小学校4年間、高等尋常小学校4年間、そして中学校に4年ないし5年間、通うのが通例であった(計12~13年間)。つまり、当時6歳で小学校に入学したとすると、最速で、18ないしは19歳に医学校に入ることができた。
千太郎の場合、大阪府立医学校を明治27年に卒業したことは、明確である(後述)。
ここから逆算すると、当時の医学校は4年で卒業するので、明治2年生まれの彼は、明治23年に、21歳で入学し25歳で卒業したことになる。
大阪府立医学校は、明治10年代に予科が設置されていたから、
おそらく彼は、明治22年に、20歳で予科に入ったであろう。
大阪府立医学校時代
大阪府立医学校とは
明治初期は、目まぐるしく学校制度が変遷していく。医学校や医師になる制度はその代表である。
ようやく落ち着きだしたのは、明治10年以降である。
明治12年、大阪公立病院が設立された(大阪市北区常安町、現在の中之島三~四丁目あたり)。
明治13年、大阪公立病院を改めて、大阪府立医学校となった(橘良佺校長)。
翌14年には、予科の設置が許可され、さらに11月に甲種医学校になった。これは、同校卒業生は国家試験を受けなくても、医術開業免許(現在の医師国家試験)が授与されることを意味した。
明治21年、清野勇が校長および病院長兼内科医長に就任し、病院規則や校則を改めた。
その結果、英語科を廃止し、ドイツ語科が設置された。
医学教育だけでなく、臨床医学においても、ドイツ医学を採用したことになる。
日本中で、特に、陸軍の医学・医療はドイツ医学が中心になっていく時期であった。
千太郎が学んだ時期は、まさに、清野勇が改革した時期に重なる。
彼が卒業する明治27年秋に、大阪府立医学校は、現在の国立医療センターの敷地(中央区法円坂)に新たに新築された。
その後、さらに変遷があり、最終的に、医学校は現在の大阪大学医学部になった。
当時の授業料
下の画像は、明治35年の府立医学校規則である。千太郎が学んだ時期から10年ほど後となるが、ひとつの参考になる。
授業料は年36円。
実験料は、1年生・2年生は、年6円。
3年生は、9円。
最終4年生は、12円と、定められていたから、
4年間で、合計177円が必要であった。
これに、生活費や下宿代、教科書購入費用なども嵩む。
教師の初任給が、月給15円程度だった時代である。
後に養家となる野村家が、学費などを支払っていたという話もあるが、定かではない。
風流人 ペンネームは「梅都山人千秋」
以前のブログにも書いたが、我がオールドクリニックには、千太郎が遺した医学部時代の授業ノートが(おそらく全部)が遺されている。
和綴じスタイル、和紙のノートである。
多くは、「講筵筆記」(授業を受けた場所で筆記したという意味)の形式をとっている。
授業を授けた教師の名前、自分の名前を列記したうえ、さらに、「梅都山人千秋」とも記している。
自分のことを、梅の都(おそらく、隣村の梅渓で有名な月ケ瀬のこと)を冠したペンネームをつけるなんて、洒脱な人だったと私は想像している。
参考までに
月ケ瀬は、今も昔も、押しも押されもせぬ梅の里である。一方、平成・令和を生きる私たちにとって、明治時代の波多野村の若者がペンネームに「梅都」と冠したことに、なんとなく違和感がある。
明治時代の波多野村の人々は、実際に、どうだっただろう?
月ケ瀬村も波多野村も、行政区として誕生したのは明治20年代であるから、それ以前から生活してきた者は、両村を明確に区別していただろうか? 月ケ瀬も波多野も一体みたいな気持ちが、今より強かったのだろうか? あるいは、波多野村も梅の都だという認識を有していたのではないか?
というのは、波多野村成立時には、その一員だったにもかかわらず、その後すぐに月ケ瀬村に移ってしまった「嵩」の存在に注目するからだ。一説によると、「梅の月ケ瀬村」としては、嵩村の梅林がないのは片手落ちという認識が強く、どうしても波多野村を脱して月ケ瀬に来てほしいという願いがあった。それほど嵩村の梅は、他の追従を許さないものだったのであろう。
(余談だが、嵩出身の波多野村の初代村長は、合併後まもなく、嵩が抜けてしまったために辞任したという)
以上の事情を理解してみると、波多野村や月ケ瀬村が成立する数年前に故郷を離れ、大阪で学び始めた千太郎にとって、「梅都山人千秋」というペンネームは、至極当然のことだったかもしれないと、私は考えるに至った。
完璧なノート
彼のノートは、一部に、手抜きしたことが一瞥で分かるものもあるが、多くは、完璧である。
書き込まれた量や字体から、「迫力」が伝わってくる。
その内容は、「講筵筆記」とは思えない内容である。相当に勉強して、後から仕上げたに違いない。
江戸時代など、印刷技術が普及していない時代は、教科書も普及していないから、学問は、まずは書き写さねばならなかった。千太郎の時代、教科書はどれほど一般的だったのか分からないが、明治の人々にとっても、「自分だけの教科書」を作っていくのが当たり前という風潮だったのではないかと思う。
脱線
現在でもそうだけど、真面目な学生のこういう授業ノートは、サボリ癖のある級友や後輩に、重宝されたことであろう。
奇しくも千太郎が卒業する明治27年に、山添村にも所縁がある堀井氏が謄写版(ガリ版)を発明している。これのおかげで、東京帝国大学の赤門界隈は、講義ノートをガリ版印刷されたものを翌朝販売する商売が成立した(宮沢賢治もガリ版が得意であったらしく、東京に出て来てこうした店に勤めたと言われている)。
まさかと思うが、彼も、完璧ノートを仲間に貸すようなことで、小遣い稼ぎをしていた可能性はないだろうか?
学生時代に医学研究会に参加
『大阪醫學研究会雑誌』18号に、井戸千太郎の名前があった。
この研究会は、大阪の臨床医学系の学会である。その雑誌に、明治26年度下半期の会費を納めている者の一人として列記されている。卒業の一年前のことである。
現代でも、医学生が、在学中に医学会に入会することはないわけではないが、稀なことである。
当時の状況はどうだったのだろう。
この名簿の中には、翌年彼と一緒に卒業する医学校生が彼を含めて5名(林秀蔵・鳥取県平民、小川量之助・岐阜県平民、土谷駒三郎・大阪府平民、横矢重長・高知県士族)の名も認められる。
おそらく彼等だけではあるまい。さらに多くの医学生が、卒前から先輩たちに交じって研究会に所属して研鑽を積んでいたと想像する。
明治27年11月 卒業
同じ『大阪醫學研究会雑誌』25号に、明治27年11月20日に挙行された大阪府立医学校第12回卒業証書授与式の記事が認められる。
卒業試験に挑んだのは50名だったが、卒業できた者は、千太郎を含め26人だけだった。
まだ、井戸姓であり、奈良県“平民”と記載されている。
ちなみに、大阪府出身は5名、滋賀県3名、奈良県は2名。
士族出身は5名であった。
同じく、明治35年度の大阪府立医学校細則に、卒業試験科目が記載されている(下図)。
第一、二、三大科目に大別されており、実地試験もあったようである。
第一大科目
解剖学、組織学、生理学、医化学
第二大科目
病理学、病解剖学、薬物学、法医学、精神病学、衛生学、細菌学
第三大科目
外科、皮膚病花柳病学、内科学、小児科学、眼科学、産科学と婦人科学
蛇足であるが、花柳病という言葉が、授業や卒業試験の「科目名」として使われているのは意外である。
二代目院長・清が大阪で一時開業した際、野村医院の看板に「花柳病」と記していたことを以前のブログで示したが、当時の洒落た通称だと思っていた。
国家試験が免除
上述したように、大阪府立医学校は、甲種医学校として認定されていたので、千太郎を始めとした明治27年卒業の第12期生は、医術開業免許という国家試験は受けていない。
当時、医師免許を取得するために、四つの道があった。
詳しくは、すでに別項「明治・大正時代には国家試験はなかった?」に記しているので、良かったらどうぞ。
これも蛇足だが、このブログ記事は、数ある私の記事の中で、最も沢山の人が閲覧している。
ダントツに多い。
おそらく、国家試験を控えた現代の医学部の学生にとって「国家試験免除」の内容は、覗かずにおれない話題なのだろう。
医籍番号 7985号
残念ながら、野村家に、千太郎の医師免許証は保存されていないが、
医籍番号は、国会図書館のデジタルコレクション検索の結果、
「7985号」であることが分かった(猪飼先生のおかげです)。
参考までに、昭和57年に医師になった私の医籍番号は、264,124号である。
医学校卒業から、野村家の養子になるまで
この時期は、野村家の養子になり、野村佐治郎の一人娘と結婚。
野村姓に変わる時期である。
卒業後、医学校に勤めたり、陸軍御雇の身分でもあった時期である。
いくつかの資料が出てくるまで、私達は、千太郎は卒業したらすぐに開業したと聞かされており、そう信じていた。
しかし、少なくとも数年間、大阪で医師としてスタートを切っていたことが次第に明らかになってきた。
資料を、年代別に並べながら、彼の軌跡を追う。
明治29年3月 陸軍御雇医師として活躍
この患者さんお顔写真の裏側に記載された手術記録から、
明治29年3月の時点で、「陸軍省御雇医師・井戸千太郎」として、第四師団予備病院にて、医学校でも授業受けた村田豊作先生と手術をしていることが分かる。
これも別項「明治29年の手術記録写真」ですでに報告しているので、詳細はそちらを読んでもらいたい。
明治29年11月 医学校病院内科医員(月給12円)
明治29年11月の内閣官報局『職員録』名簿に、大阪府立医学校病院の内科医員として名を連ねている。
ちなみに月給12円と記載されている。
時代別の物価の推移をみるうえで、教員の初任給が例に挙げられることが多いが、この時期、それとほぼ同じレベルではないだろうか。
後述の「助手職」はまだ、府立医学校病院には存在しない。
このふたつの資料から
おそらくは、卒業後に、母校府立医学校病院の医員に採用され、第四師団予備病院の御雇医師として、かけもちしていたのではないかと想像する。
同期生の医学研究に協力
明治30年7月刊行された『顕微鏡』第17・18合併号に、田中祐吉の論文「肝臓原発癌ノ一症」の末尾である。
謝辞として、「筆を置くにあたり、我が学友たる医員井戸千太郎と市村駒三郎の両君が助力を与えてくれたことに感謝する(意訳)」と記されている。田中祐吉は、卒業生26人の中に含まれている。同級生である。
明治27年の卒業生名簿(前出)には、市村駒三郎ではなく、土谷駒三郎の名がある。
現在手元にある最新の大阪大学医学部の歴代卒業生名簿にも、明治27年卒業生として、彼は井戸姓ではなく、野村千太郎と表示されている。同じく、駒三郎の姓は市村とある。
これから分かることは、土屋駒三郎は、千太郎と同様に養子縁組で姓をかえたのであろうということ。それも、卒業して、もっと間もない時期に。
明治30年4月 医学校病院の内科助手に
大阪医学研究会雑誌によると(下写真)、明治30年、大阪府立医学校附属病院には、新たに助手職を設けることになり、同年4月から千太郎はその初代の助手に採用されている。まだ井戸姓である。
助手に昇格したら、医員俸給12円から、増えたはずであるが、その額は不詳である。
明治31年 住所録 南区坂町
南江堂発刊の『帝国医籍宝鑑』には、明治31年7月現在の住所として、南区坂町とある。
すでに婚姻しているはずが、まだ井戸姓で登録されている。印刷まで時間を要するからかもしれない。
南区坂町は、現在の中央区坂町通のあたりか。
彼が卒業した年に法円坂にできた府立医学校病院まで、直線距離にして2km程度。
後に勤めることになる第四師団予備病院も、遠くはない。
詳しい番地などは、不明のままであるが、現在のようなビル街ではなく、通勤の道は、もう少し長閑な風景だったかもしれない。
陸軍から記章授与
『官報』明治31年9月15日付の官報から、千太郎は陸軍から記章を授けられたことが分かる。
医師になってから数年間の、陸軍省御雇医としての功績が認められたのであろう。
後述するが、大正14年の医籍録(後掲)に、「大阪聯隊徴兵検査員」を務めたという記載も見受けられる。
かなり陸軍の業務に関わっていたことが分かる。
御雇とは
注目するのは、この名簿では「陸軍省御雇」と立場が記されていることである。
ここまで見てきたように、千太郎は、卒業以来、ずっと「御雇医師」として仕事をしているようである。
軍医ではない。
卒業した頃からしばらく陸軍の関係が続いたが、彼が徴兵されたり軍人だったとい形跡はない。
明治の初期、御雇外国人と称される人達が、開国間もない我が国に、技術や知識を伝授するために、日本政府から破格の給料をもって招聘されている。しかし、彼の「御雇」という肩書には、このような御雇外国人のような雰囲気は感じられない。下の名簿をみても、その数が多すぎて、御雇外国人のような厚遇で迎えられたとは思えない。
「御雇」とは、どんな立場だったのだろう?
記章を授与された者のなかには、“元”陸軍省御雇と記されている人もあることから、この時期に、まだ彼は御雇医師“現職”だったと判断される。後述するように、明治30年後半に野村医院を開業している(はず)だから、御雇のままであっていいのか疑問が残る。
軍の仕事というと厳格な印象があるけれど、当時「御雇」というのは、緩やかなものだったのだろうか。
明治31年 野村佐治郎の娘と結婚
明治31年7月12日、野村家の養子となり、野村佐治郎(安政元年生まれ)の娘・タツエ(明治13年生まれ)と結婚した。
この時、千太郎は29歳、タツエは18歳であった。
2人の間に、すぐに子供ができた。
明治31年10月7日、後に二代院長となる清(きよし)の誕生である。
婚姻届けを出した時、すでにタツエは清を身籠っていたことになる。
妊娠が成立し安定期に入ったのを確認して、正式に籍を入れたのかもしれない。
家を守ることが最優先だったあの時代には、このようなことが通例だったのかもしれない。
なお、タツエはその後、夭折。
2人の間には、子供は清だけであった。
迎えた後添えとの間に、子供はなかった。
野村医院開業から、亡くなるまで
明治30年開業
昭和37年発刊「波多野村史」には、野村医院は明治30年10月開業とある(456ページ)。
私はしばらくの期間、これを拠り所にしていた。
しかし、最近入手した大正14年と昭和5年の医籍録には、同年12月と記されている。
一目瞭然、ふたつは、同一であり、改訂なく、そのまま使われている。
このブログを書いている現時点では、10月であろうが12月であろうが、大きな差はない。
いずれであっても、この開業した後に、陸軍から記章を授与されていることになる。
診療所の建設
いずれにせよ、千太郎は明治30年の後半から野村医院で診療を開始した。
最初から、野村医院旧診療所で診療にあたったと考える。
これも、その昔、お彼岸などで私の父やその兄弟たちが集まって話題にしたことであるが、
佐治郎(千太郎の義父)が、千太郎が帰ってくるのを待って、私財を出して診療所を建てたということになっている。
佐治郎は、相当羽振りが良かったようだ。
先述のように医学校の学費や生活費も援助したという話さえあるが、真偽のほどは分からない。
参考までに
千太郎以前の野村家について
佐治郎の興味深い資料(下の画像)がある。
山辺郡大西村・野村佐治郎の、明治20年10月「自家用料濁酒仕込汲取記帳」である。
(自分の家で利用する濁り酒の仕込みや汲み取りの記録帖ということ)
大和高原民俗資料館(大和高原文化の会主催)が展示している民具・道具のひとつ。
自家用となっているが、当時、佐治郎はお酒の商売もしていたのだろうか?
野村家は、江戸時代、農民であったと思われるが、
明治初期に才覚があって、明治20年代に、金融業も営む大きな地主になっていたことは、間違いない。
オールドクリニックの愛称で呼んでいるこの旧診療所の構造は、冒頭で紹介した春日小学校講堂にも似ている。同じ時期に建てられたという点だけでなく、久保直次郎が関わっているという共通点もあって興味深い。
しかし、設計図も遺されていないし、実際に、大工の名前も、何年に竣工したかも定かではない。
開業医としての千太郎
波多野村史には、大正2年から昭和13年12月まで、「村医」を務めたことが記されている(p457)。
故郷に戻って開業した千太郎にとって、この肩書は、とても名誉なものだったに違いない。
そのうえ、何十年も村立小学校の校医もさせてもらっている。
明治44年の『大和人名鑑』には、彼が奈良県医師会代議員であったことも記されている。
そして、このオールドクリニックに遺る数々の医療器具や薬品などから、彼が精力的に医療を展開していたことが想像できる。子孫の私がこのように書くのも憚られるが、おそらく周囲からの信任も厚く、医師として懸命に働いたに違いない。
彼が馬に乗って往診したことは、今でも話題にのぼる。
当時の開業医の多くは、馬で往診するというのが、普通だったかもしれないけれど。
愛馬・春風号の写真が奇跡的に残っている。
別項『「春風の肖像」 初代院長の往診馬』を読んで欲しい。
大正年間に、出張所を月ケ瀬に
オールドクリニックの倉庫から見つかった薬札をご覧いただきたい。
これが、私にとって最大の「謎」である。
この薬札一枚から、梅渓で活況を呈していた月ケ瀬村の尾山地区に、大正時代に野村医院の出張所があったことが明らかになった。作ったのは、千太郎である。二代・清では説明できない。
しかし、これ以外には一切情報がない。月ケ瀬村史にも記録はない。尾山の高齢者に訊ねても、はっきりしたことは分からないままである。
別項『新たな謎! 大正時代に「尾山出張所」があった!』に詳しく書いたので、読んでもらえたらありがたい。
ともかく、この頃、彼はノリに乗っていたことは、想像に難くない。
晩年
結婚してすぐに生まれた長男・清は、大正10年に医師になり、すぐに軍医となった。
兵役を全うした後、大阪で開業の傍ら、ようやく研究生活を始めたものの、日華事変に端を発した日中戦争の拡大に伴い、昭和13年5月、臨時招集を受け中支に出征した。
これが、千太郎には堪えたようである。当時の野村家の集合写真が遺っているが、彼の顔は憔悴しきっている。
冒頭で示したポートレート写真とは、まるで別人である。
結局、清が出征したその年の12月に、持病の糖尿病を悪化させて亡くなった。
享年69歳。
義父・佐治郎も、後を追うようにして亡くなった。
佐治郎夫妻も、千太郎夫妻も、大西の墓地に葬られている。
大黒柱である二代院長・清が出征し、創始者・千太郎や、佐治郎がを次々に亡くした野村家は、多難の時期を迎える。
戦争に翻弄された一時期であった。
清の妻・スズが銃後を守った。
(スズは、前出・久保直次郎の姪にあたる)
幸い、出征した夫も、清の長男(俊行)も、終戦後、無事に復員した。
この辺りのことは、別項『第二代院長・清のファミリーヒストリー 戦争と野村家』に詳述した。
今日はここまで
猪飼先生から提供していただいた資料を、自分なりに消化したうえで、千太郎のことを書いてみた。
長文駄文を許していただきたい。
今後も、少しずつ情報を集め、その都度、改訂していくが、令和6年1月3日現在、これが私ができる精一杯のブログである。
野村医院創始者・千太郎のことを、少しは理解してもらえただろうか。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ご意見をお待ちしています。
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