Signboard of venereal disease 「性病も診ます」の看板
A signboard of Osaka branch of Nomura Clinic
Mid 1920s
It says the clinic is specialized as internal medicine, pediatrics, surgery and syphilis.
NOTE: This board was not for our clinic in countryside, Yamazoe village.
This was for the clinic which the second director, Kiyoshi, opened in Osaka down town. Before succeeding his father’s clinic, he had opened a branch clinic temporally in a north area in 1920 to 1930. As this area was close to a red-light district, he had to frequently treat such patients with venereal diseases.
野村医院(大阪分院)の看板
1920年代(昭和初期)
看板には、「内科・小児科・外科、そして、花柳病を診ます」と書いてあります。
花柳病とは? 色街において罹患する病気(性病)をかつてはこのような風流な言葉で表していました。
当時は、梅毒と淋病(とくに、梅毒)のことです(現代は、もっといろいろな種類が増えました)。
実は、これは”山添村の野村医院”の看板ではありません。
二代目院長・清が、父親の診療所を引き継ぐ前に、1920年代~30年代に開設した大阪中津の診療所の看板だと推測しています。そこは、花街に近かったから性病患者さんも多かったので、このような看板を設けたのだと考えられます。繁盛していたのでしょうか?
大阪北区国分寺町の野村医院
この稿は2020年8月に初出。
その後、2022年に二つの貴重な情報が入手されたので、2023年1月、大幅に加筆することとした。
大阪での詳しい情報は、残念ながら、あまりありません。清の履歴書があるから、「国分寺町」とは記しているものの、野村家の親戚が集まった話し合いのなかでも、住所が語られたことは一度もありませんでしたから。
ですので、父親が生前語っていたことや親戚から聞いた話、それに、今回発見した記述や写真などをまとめてみます。
貴重な情報のひとつが、これです。奈良県医師会史(昭和57年刊)p534に見つけました。父親が祖父・清について述懐している部分を引用します。
・・・(前略)・・ 大正10年・1921年、岡山医専を卒業して京都市松山外科病院や大阪市回生病院外科にて臨床研究し、さらに大阪府済生会中津病院にて内科小児科勤務を経て、大阪市豊崎診療所々長を歴任、夜間開業の傍ら、阪大第三内科に入局、さらに竹尾結核研究所に入所し博士論文研究中に応召し・・・(後略)・・・
①清には7人の子供がありましたが、最初の五人は、大阪の中津で生まれています。下の写真は、その大阪の医院で撮影されたと目される5人の子供達の写真です。これの解説は別項(軍都・大阪から見た野村家Family History!)に譲ります。
②親戚の話などですが、当時大阪の住まいでは、ネズミをたくさん飼育していたといいます。これは、上記の奈良県医師会史の記述と一致します。つまり、彼はネズミを使って結核の研究をしていたようです。それを、当時は医者は、自宅で飼育しながら投薬実験などをやっていたのです! その隣は、花街、、、なんとも、長閑な時代です。
下の写真は、大阪の野村医院の前で撮影されたものと目されます。
右端に祖父・清(当時、30歳代前半)。ネクタイ姿で懐中時計の鎖が見えますが、足元はスリッパ?でしょうか。
三男・雅一を抱くのは妻のすず。
あとの女性たちは病院の職員でしょうか。もしかしたら、ねずみの飼育を担当していたスタッフも含まれているのかな。
それにしても、「夜間開業」していたとは驚きました。「花柳病」治療を希望する患者さんは、夜間にもみえたのかもしれません。
初代・千太郎は、息子の清の大阪での開業をどう思っていたのでしょうか?
跡継ぎで一人息子が、故郷の野村医院を手伝うどころか、大阪のど真ん中で開業するとは、、、
かなり、葛藤があったのではないかと推察します。
清は、別項で述べましたが、大正10年岡山医学専門学校を卒業したのに、故郷に戻ってこないから千太郎が岡山まで迎えに行ったところ、芸者さんの二階で過ごしていたという逸話の持ち主です(第3話「明治大正時代に医師国家試験はなかった」参照)。
結局、父である千太郎が病弱になった昭和10年頃(推定)、清は大阪の野村医院を閉院して、山添村の野村医院に戻ってきたとも聞きますが、昭和13年の応召を機に閉院してしまったのかもしれません。
♣私も、60歳を過ぎるまで、野村医院を継承することはできませんでした。自分の夢を追いかけたい、親の医院を引き継げば、自分の可能性や実力を試すことができなくなる、自分は親とは違うんだ、田舎の窮屈感、親の強い影響、「しがらみ」という言葉に代表される人々との関り、etc、、若いうちは、こういうことを受け入れることができませんでした。
きっと清もそういう状況だったと思っています。
清の大阪時代のことは、いずれ、倉庫などを整理するうちに分かってくるでしょうから、色々追加で情報を乗せていくつもりです。
大阪の小学校からの感謝状
数少ない大阪開業時代の物品として、このような賞状があります。
実は、今日の主役である看板も、この賞状も、最近(令和2年)私の従弟の栄作さんが、母屋の掃除をしていて見つけて下さったものです。
昭和9年(1934年)に大阪豊崎第四尋常小学校長から、野村医院長・野村清への感謝状です。
♣それによると、この年の台風災害で校舎が倒壊した際に、清が自分の身の危険を顧みることなく、児童の救出や応急手当に全力を尽くしたこと、処置や投薬を一切無料で行ったということです。
大正10年、芸者遊びに呆けて故郷に戻ってこなかった清は、それから13年後、こんな活躍をしていたのです。
我が祖父のことながら、とても誇らしく、自分も見習わねばなりません。
♦清の卒業した岡山医学専門学校には、梅毒の特効薬を発明した秦佐八郎がありました。
このことは、次のサルバルサンの項でお話ししたいと思います。
大阪中津の野村医院が、かつてどんな医院だったかは分からないけれど、祖父がいきいきと地域で医者をしていたことは、間違いありません。曽祖父・千太郎と同様に、内科・小児科・外科となんでも診療し、そして性病まで看板に挙げて診療に勤しんでいたことでしょう。
栄作さんの好意により、この看板も感謝状も、オールドクリニックにて保管し展示することにしました。
栄ちゃん、ありがとう!
梅毒Syphilisの語源など
コロンブスが南米から持ち帰ったという通説が、最近、次第に誤りだった?とも言われている梅毒ですが、いずれにしても、大航海時代に新大陸から欧州に、そして、アジアへと伝播したことは間違いありません。
我が国では、江戸時代に相当数の人々が感染していたはずです。
江戸時代末期、欧米列強が力ずくで開港させた時、欧米の船員の相手をする女性の性病検診を日本人医師には認めなかったと言います。明治政府になってもしばらくは、日本人医師にその力量がないとされていました。これも一つの治外法権です。
ところで、syphilisは、Girolamo Fracastoro(イタリア人医師・詩人)が1530年に、syphylis sive Morbus Gallicus(シフィリス・梅毒あるいはフランス病)という梅毒の起源について物語(叙事詩)を書いています。彼が名付け親だとみなされています。「フランス病」とは、イタリア人が梅毒をフランス人のせいだと決めつけていたことに由来。フランス人は、逆に「ナポリ病」と言っていたらしい。
♣syphilis は、シンクロとかシンフォニーなどと同じ:syn(ともに)+philia(好む、愛)という二つの言葉を合わせて作られたものです。愛があるかはどうか分かりませんが、色を好んだ結果うつる病気であることを、当時から見抜いていたFracastoro先生、おそるべし!
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
二代目・清さんの、大阪での開業時代のことを、一枚の看板から述べました。
今日は、ここまでです。
どうぞ、また、野村医院旧診療所・オールドクリニック博物館に遊びに来てください。