Tannin タンニン酸
タンニン酸 Acidum Tannicumとラベルされた着色薬品瓶
明治時代
A medicine jar labeled as Acidum Tannicum
Meiji period
医薬品としてのタンニン酸
21世紀も20年が過ぎた今日、「タンニン」と言えば、ポリフェノールの仲間、健康食品の代名詞のような響きがあります。
たとえば、お茶やワインの風味、渋柿の渋みや防腐作用に関する物質は、どれもがタンニンと総称されるものです。
蛋白質を結合・変性させる作用によるものです。
しかし、今日、そんなに頻繁に使用される言葉ではありません。ポリフェノールなどに比べると、忘れ去られたような言葉かもしれません。
しかし、オールドクリニックでタンニンが用いられた時代には、きっと、止瀉剤(下痢止め)として重宝されていたのだと推察されます。胃腸粘膜からの粘液の分泌を抑える作用があるからです。
現在も、タンニン酸アルブミンとして止瀉剤は日本薬局方に収められています。これは、アルブミンという蛋白質と結合させているので、苦みはあまりないはずですが、この瓶に遺されているタンニン酸の粉末薬を味わったことがありませんので、どれくらい渋いものか分かりません。
明治時代の赤痢
止瀉剤に関連して「下痢」を生じる代表的な疾病、赤痢について少しだけ記載します。
波多野村史(昭和37年刊)によると、オールドクリニックの近辺では、明治27年に西波多地区で集団赤痢が発生し、10名近い死者を出したといいます。当時、この地域や近隣の住民は恐怖のどん底に陥り、西波多地区には誰も近寄らず、結果的に、地域がそのまま隔離されたような状況であったようです。
当時、野村医院はまだ開業していませんでした。もし開業後に、赤痢が流行していたら、千太郎はどのような対応をとったでしょうか?
ちなみに、赤痢菌が同定されたのは、1897年・明治30年(野村医院が開設された年)です。有名な志賀潔の功績です。その功績をたたえて、赤痢菌はShigellaと命名されました。日本人の名前が冠せられた唯一の病原菌です。
さて、明治20年代に医学部に学んだ千太郎の内科学ノートには、当然のことですが、「赤痢は感染症であるが原因はまだ分かっていない」とされています(下図左)。
治療には、「初期は甘汞(水銀を含んだ下痢止め)が良い」と記載されています(ベルツ先生もそれを推薦したとあります)。
「強い肛門症状には、阿片・コカインをカカオなどに混ぜて坐薬を作って肛門の痙攣を治療する」と記載されています(下図右)。この紅い字は、指導教官の添削かもしれません。
原因菌も不明で抗生物質もない時代の苦労が偲ばれます。
そして、「便の回数が減ってきたら止瀉剤を用いなさい」とのことですから、ようやく今日の主役「タンニン酸」の登場ということになるのでしょう。
その後、幸い、大過なく山添村は大きな疫病もなく、また風土病もなく、平和な村として時を重ねています。
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今日のお話しはここまでです。
オールドクリニックには、当時用いられていた薬品や医療器具がそのまま遺されており、また、当時の医者が学んだ医学部時代のノートや教科書も併存していますから、有機的に当時の医療をイメージすることが出来ます。
私自身も、このブログを書きながら、120年前の医療の苦労が、すごく具体的に感じることが出来るようになってきました。
これからも少しずつ紹介していく予定ですので、どうぞブログにまたお立ち寄りください。