プロローグ
ガリ版の聖地は、どこ?
もし、一世を風靡した明治時代の貴重な発明品である印刷道具・ガリ版(謄写版)に関連する「聖地」を定めるとしたら、どこを選ぶだろうか?
①滋賀県東近江市岡本:発明者堀井耕造の生まれ故郷。彼の生家・堀井家は岡本宿の豪商。現在もガリ版伝承館としてガリ版文化の保存と継承に利用されている。
②東京都千代田区:堀井謄写堂株式会社(後のホリイ株式会社)の旧本社ビル(現・神田中央通ビル)。ここには、現在も「謄写版発祥の地」と記されたプレートが遺されている。
①②の提案に、だれも異存はあるまい。三つ目はあるだろうか?
③もし許されるならば、筆者の独断であるが、奈良県山添村を第三の聖地、ふるさとの‟ふるさと”として立候補させたい。
ガリ版(謄写版)を発明した堀井耕造(別名、仁紀、あるいは二代目新治郎)は、現在の滋賀県東近江市出身であるが、彼の父が、実は奈良県山添村出身であることは、ほとんど知られていない。この物語は、そんな堀井耕造と山添村にまつわる戦国時代にまでさかのぼる物語である。
物語の始まりは、堀井新治郎が建てた顕彰碑
山添村大西地区の共同墓地には、他の石塔墓碑を圧倒するような大きな顕彰碑が立っている。昭和三年に、堀井耕造がこの地に建てたもので、全文が漢文で記載され、高さが大人の男性を軽く超えてしまう立派なものである。
私は、子供の頃から、これを見て育った。地区の高齢者からは、「川上さんの娘が、滋賀県のガリ版の創業者の家にお嫁に行ったんだ、玉の輿や」などと聞かされ育った(事実は、もちろん異なるのだが)。記載された内容を知る由もないまま、月日は流れた。進学・就職を経て私は、こんな石碑のことを長い間すっかり忘れていたが、還暦も近くなった数年前に、ガリ版と山添村の関係を詳らかにすることができたのだった。
ガリ版とは?
ガリ版と言えば、昭和50年頃まで実に多くの人たちが利用した簡単便利な印刷道具。正式な名称は『謄写版』であるが、原稿を書く(ガリ切という)ときに鉄筆がやすりに擦れる独特の音から、「ガリ版」の愛称で親しまれた。現在60歳より上の世代には、懐かしい響きと思い出がある一方で、50歳以下の人たちには、まったく馴染みのないものであろう。なぜなら、コピー機やワープロの出現とともに、ガリ版は役目を終え、昭和50年代後半には世の中からあっという間に消えてしまったからである。
ガリ版は、滋賀県出身の堀井新治郎・耕造親子が苦心の末、明治27年(1894年)に発明した。日清日露戦争にあって簡便手動の印刷機は、まず軍隊に採用され、それ以降、官公庁、学校、商社、新聞社などにもつぎつぎと使われるようになり、彼らの興した堀井謄写堂株式会社は事業を拡大し、一流企業へと発展した。その簡便さ故に、民衆にも広く愛用されるようになった。
私達の世代(昭和30年代前半生まれ)は、最後のガリ版世代かもしれない。試験問題も、成績表(通知簿を除く)も、学級新聞も、文集も、PTAの書類も、給食の献立表も、すべてガリ版で印刷されていた。試験問題が机に配られた時漂った、わら半紙とインクの匂いを今も覚えている。全国津々浦々まで、このような状況だったにちがいない。
このようにガリ版は、明治期を代表する日本の発明品であり、堀井親子の隆盛ぶりは、戦前の代表的な立身出世物語のひとつである。
発明者・新治郎と耕造、堀井家の由来、そして、耕造の父親のこと
堀井新治郎(旧姓・菱田)は、安政3年(1856年)現在の竜王町に生まれ、明治16年(1883年)に東近江市岡本の堀井家に、耕造の養父として迎えられた。彼は元々岐阜県職員として農業振興に関わっていた。各地を巡回し農民に新しい農法を説く際に、簡便な印刷機があればと常々考えていたと言われている。
養父として新治郎を迎えた堀井家は、江戸時代から代々醸造業を営む商家であった。岡本宿は、中仙道愛知川宿と東海道土山宿を結ぶ街道の中央に位置した交通・商業の要であった。近江商人の代表的な存在であったと推察する。
堀井耕造は、明治8年(1875年)8月13日に、父・彦四郎(別名・市松)と母・秀子(ヒデ)の間に長子として出生した。後に、父新治郎とともに簡便な印刷機の開発を目指すことになる。
前置きが長くなってしまった。ここまでがよく知られたガリ版発明家・堀井新治郎と耕造親子の経歴とガリ版(謄写版)の説明である。従来のネット検索でも簡単に入手できる話題だ。
しかし、知られていない堀井耕造の父・彦四郎(別名・市松)の出自こそが『山添村ガリ版物語』の始まりである。
いったい、山添村出身の彦四郎は、どんな人物だったのか?
彼の親里はなにをしていたのか?
なぜ、彼は大和の国から近江の国に来ることになったのだろうか?
この顕彰碑に、堀井耕造はどんな気持ちを託したのか?
冒頭で紹介した堀井新治郎が建てた顕彰碑を見て育った私は、この数年、友人たちの助けを借りながら、ようやく堀井彦四郎について詳しく調べ、私達の故郷山添村が、ガリ版発祥のふるさとの“ふるさと”として、第三の聖地に自薦ながら立候補するに相応しい地であることを突き止めた。
その経緯を、後日綴ります。物語の続きをどうかお楽しみに!