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やまぞえ絆リレー2020
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やんばいのぉ山添村
ええ天気やなぁ山添村
『やんばいのぉ』とは、山添弁で『いい天気だね』という意味です。
『やんばいのぉ山添村』は、関西弁では『ええ天気やなぁ山添村』になります!
『やまぞえ絆リレー2020』2021年5月9日に延期となりました。

明治時代内科学講義ノート Part1 オールドクリニックの収蔵品 ㉖

目次

初代院長・千太郎の医学部時代の講義ノート

そろそろ、初代千太郎の医学部時代の講義ノートを紹介しなければなりません。
彼は、明治26年(推測)に、大阪府立医学校(大阪大学医学部の前身)に入学し、同30年に卒業したようです。
井戸家(山添村春日)に生まれた彼は、学生時代のノートに自分の名前を「井戸仙太郎」「井戸千太郎」と記名しています。
卒業後、野村家に婿入りして、野村医院を開業しました。

オールドクリニックには、彼の医学部時代の講義ノートが、基礎医学から臨床医学まで、おそらく全科保存されています。少しずつ紹介していきます。

ほとんどの講義ノートは、
『講筵(こうえん)筆記』、つまり、講師・教師の講義を書き留めたもの、あるいは、板書されたものを書き写した体裁です。和紙を用いた墨と朱の毛筆書きで、縦約23㎝、横16㎝程度の和綴じです。。
使われている言葉は、口語体の片仮名混じりの日本語と、多くはドイツ語とラテン語です。

例として、下に内科各論・巻3の中枢神経に関するページを紹介します。

内科学各論

さっそくですが、第一回は、内科学各論です。
現在、内科学”総論”というノートは確認できておりません。
各論は、巻1~4でなっております。

◆巻1 感染症 (「脚気」が、この中に含まれています!)
◆巻2 呼吸器、循環器疾患
◆巻3 神経疾患
◆巻4 腎・泌尿器疾患、血液疾患、糖尿病、痛風、消化器疾患
という内容。

どの巻にも、最初のページに、「梅都山人千秋」という名前と蔵書印(?)があります(下図)
これは、千太郎のペンネームなのか、まだ判然としません。
「梅都」とは、梅渓で有名な山添村の隣・月ケ瀬を意識したものでしょうか?
(もう一度、内科学の教師・村田豊作が学生時代に使ったペンネームとの関連性について述べます)

内科学の講師・村田豊作について

巻1の第2ページに、講師と生徒の名前が記載されています(以下の巻には認められない)。
『大阪府立医学校教諭
  医学士 村田豊作先生 授
  生徒  井戸仙太郎  記』

とあります。
生徒と先生のほとばしるような気迫の雰囲気が、このページからだけでも、感じられるのですが、いかがでしょうか?

最近ようやく、講師の村田豊作氏について詳細を知ることが出来ました。
だから、このブログ記事では、最初に内科のノートを紹介することにしたのです。
ネットで調べていると、村田豊作氏の御子息が一冊の本を著していらっしゃったのでした。
本の名前は、「堀達之助とその子孫-父・村田豊作-」(2003年)。
著者は、村田豊作の後妻(千代乃)(再々婚相手)の子供である村田豊治氏。

この本の第一部は、タイトルにもあるように、堀達之助について詳述されています。
堀達之助は、吉村昭の小説「黒船」(1991年)でも有名になったのではないでしょうか? ペリーが浦賀に来た時に活躍(苦労)した通訳です。一介の小通詞ながら、語学の才を活かして困難な日米交渉の最前線にいた人です。英語も決して話せないわけではなかったものの、英語での交渉になると米国のペースに引き込まれてしまうことを防ぐために、米国側の通訳とオランダ語で交渉することに腐心したとも言われています。吉村昭は、この本の元になった村田豊治氏の私家版「堀達之助考」(1987年)を小説「黒船」執筆の際に大いに参考にしたようです。

第二部には、そんな堀辰之助氏と直接の血縁はないものの、堀達之助の子孫の中で、特筆すべき村田豊作について、詳述されています(達之助の孫・ナリの結婚相手が村田豊作氏)。
この本によって、彼の経歴や人格がしっかり正確に把握できますが、とくに、大阪府立医学校の内科学講師としての村田豊作に関連する部分を紹介します。

村田豊作経歴> 
大阪府立医学校や本ブログ記事と関連がある部分を「赤色・下線」で示します。
1861年(文久元年) 佐賀県小城郡にて、父義武と母アヤの長男として出生。父は、佐賀小城藩(鍋島支藩)の御典医。
1876年(明治9年) 同郷の先輩菊池常三郎(後の陸軍軍医総監、医学博士)に伴われ上京。
1881年(明治14年) 20歳の時、大学予備門(後の第一高等学校の前身)に入学するも、翌年父が亡くなり家督を相続した豊作は、母や弟妹らをすべて東京に呼び本郷に居を構えた。生活は貧しく、今でいうアルバイトで学費を稼いだという。
1884年(明治17年) 23歳で東京帝国大学医学部に進学。大学時代の教官には、石黒忠悳、緒方正規、エルウィン・ベルツらがいた。苦学生のため陸軍の依託学生となり、国費を受けて在学(卒業後陸軍軍医に任官することが義務づけられた)。
1886年(明治19年) 25歳、大学3年。在学中に、文学活動にも熱心で、尾崎紅葉が主宰する「硯友社」に加盟して、
「寸木田人」のペンネームでドイツ戯曲「一読千歎・欧州書生気質」を翻訳・出版した(神谷書房)。
1888年(明治21年)1月、東京帝国大学医長・秀島文圭の長女・艶(ツヤ)と学生結婚。
同年9月、東京医学会にて
「陸軍兵士の脚気について」という研究を発表し、脚気には麦飯が予防効果があると主張した(中外医学新報第205号)。
同年12月、東京帝国大学医学部を卒業し、医学士となった。同時に陸軍見習軍医に任ぜられ、さらに陸軍軍医学校において6か月間の研修を受けた。優秀な彼を軍医にさせず医学部に留まらせようとする動きもあったらしい。

(ブログ執筆者註: 当時、東京帝国大学医学部には、卒業まで5年を要する本課と、医師不足解消のため4年で卒業できる別課が併設されていた。苦学生の村田豊作は4年で卒業しているので、別課(であったと推測する。本課はドイツ人がドイツ語で講義、別課は日本人が日本語で講義していた。どちらを卒業しても、医師としての資格には差はなかったがが、別課の学生は、本課から「パラジイテン(ドイツ語で寄生虫の意)」と野次られたという「日本の医療史、酒井シズ著」。
別課は、1885年に学生募集を停止し、村田豊作が卒業した1888年に廃止された。本課の教授もすべて日本人となった。「東京大学医学部の歩み」より)
(註:彼の氏名は、東京帝国大学卒業生氏名録にも確認できる)
1889年(明治22年) 陸軍三等軍医(少尉相当)に任ぜられ、大阪第四師団附を拝命。堀達之助の子孫も大阪在住。
1892年(明治25年)31歳、大阪府立医学校(大阪帝国大学医学部の前身)の教授を兼任
1894年(明治27年) 日清戦争勃発。堀達之助の孫・成(ナリ)と再婚(艶・ツヤは前年に病没)。
1895年(明治28年) 34歳。4~12月、大陸に出征。日本海々上の軍艦船内で、軍歌「衛生隊兵船進軍行」を作曲し兵士を鼓舞した。
1896年(明治29年) キューバ視察(台湾統治のために、風土の似たキューバの行政、公衆衛生、気候などを調査した?)。
1900年(明治33年) 39歳、市立鹿児島病院(後の県立鹿児島病院)院長就任。
1903年(明治36年) 42歳、日蓮宗からキリスト教(プロテスタント)に改宗。
1904年(明治37年) 日露戦争勃発、予備役軍医として招集され、二等軍医正(中佐相当)として小倉予備衛戍(えいじゅ)病院長就任。傷痍軍人や捕虜の治療にあたる。
陸軍の病院であったが、院長であった彼の方針に則り、病院食には白飯に麦を3割混じて供した。
1905年(明治38年)44歳。日露戦争終わり、復員、除隊。勲四等功四級を授与された。
1906年(明治39年)鹿児島市立病院に再度招聘されるが、自ら「副院長」として戻った(院長には知り合いの外科医を推薦した)。翌年、市立病院は県立病院に昇格移管した。
1908年(明治41年) 妻・成(ナリ)が5月に、子供8人を残して病死したため、9月に千代乃と再々婚(著者の豊治は、千代乃との間に生まれた子供)。
1916年(大正5年) 55歳、鹿児島市東千石町に村田内科医院を開業。地域診療に努めるとともに、アララギ派の歌人としても活躍した。
1935年(昭和10年)74歳、旅先の京都にて客死。


◆明治時代中期の地方の医学部や医学校は、経済的にも運営は困難を極めたが、教官の確保にも相当苦労したことが知られています。我が祖父は、東京帝国大学医学部卒業の新進気鋭31歳の村田豊作から内科学を学んだことが、これで判明しました。陸軍軍医として第四師団に勤めながら、大阪府立医学校の教育をも引き受けていたのです。
千太郎の講義ノートには、年代の記載がありませんが、村田豊作が教授に就任した1892年から日清戦争に出征する1895年までの間であることが、ほぼ確定しました。
◆村田豊作の学生時代のはペンネーム「寸木田人」は、千太郎の講義ノートの最初のページに記されている「梅都山人千秋」となにか関連性を感じるのは、私だけでしょうか? 千太郎に尋ねなければ何も分からないのですが、今後も「梅都山人千秋」という名前をマークしていきたいと思います。何がヒントがありそうですから。
◆学生時代に村田豊作が、脚気には麦飯が予防効果があると主張したことは、まことに印象的です。彼は、脚気細菌説を信じて疑わなかった陸軍の依託学生であったのですから、相当な覚悟が必要だったはずです。その十数年後、日露戦争の傷痍軍人たちに、「不味い麦飯を喰わせるな」と文句を言われながらも、あるいは軍の高官からの非難を承知のうえで、脚気治療・予防効果を信じて行動していたのです。
しかし、千太郎の講義ノート内科学各論巻1の「脚気」は、伝染病の項で学生たちに教えられたことが明らかになりました。その中で脚気の原因は感染症が疑わしいが「依然不明」とされており、治療にも麦飯を推奨しているような記述はありません。学生に教えることは、医学界の「常識」と考えられる基礎的なことに留めていたからでしょうか? それとも、村田豊作は、系統講義をするにあたって、どこかの有名な教科書の分類に倣ったのかもしれません。
この辺りの、村田豊作の脚気に関する教授内容と、社会での実践内容の矛盾を説明することは現時点では困難です。今後の研究のテーマとしておきたいと思います。

☆☆☆☆☆

今日はここまでです。
拙いブログを最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

千太郎の講義ノートを元に、当時の医学教育や医療事情を、これからも考察していきたいと思いますので、また、お付き合いくださいませ。

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出しております。若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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