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絆リレー祭2023
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「春風の肖像」 初代院長の往診馬 オールドクリニックの収蔵品⑤

春風
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「春風」

初代千太郎の往診馬・春風。
野村医院開設して間もなく、隣村・月ケ瀬村尾山の福田金治さんから譲られ、野村医院で18年間もの間、往診馬として活躍したといいます。
そんな春風、おそらく15歳~20歳頃(人間でいえば、50歳~70歳?)の写真です。

A portrait of a horse named HARUKAZE, spring wind, aged between 15 to 20?
He was used by the first director, Sentarou to visit his patients’ homes.
Harukaze came to us in 1904, and then died in 1922.
His height is speculated around 140~150 cm.
Seems to be a native to Japan, or half blooded Japanese and Western.

肖像写真入手の経緯

2012年(平成24年)9月でした。
卒寿を祝う伯父(父の兄・俊行さん)が、わざわざ私のために届けてくださったのが、この写真です。
親戚が集まるたびに、私が毎回のように、曽祖父や祖父が乗っていた馬の話を持ち出すものだから、きっと気にかけて下さったのだと思います。
伯父は、同じ写真が二枚あったから一枚を私に進呈すると言って下さいました。

その頃は、乗馬には凝っていたものの、まだ、オールドクリニックの整備も収蔵品の展示も、まったく考えてもいなかったのですがが、私は嬉しくて嬉しくて!
伯父の優しさとご好意にものすごく感謝して、すぐに津市「三重額縁」で額装してもらいました(当時、津に通勤)。

*野村俊行さんは、令和3年(2021年)10月、老衰のためにお亡くなりになりました。
生前に受けた数えきれないご厚情と、優しい笑顔を、生涯忘れることはありません。
慎んでお悔やみを申し上げるとともに、ご冥福を心からお祈り申し上げます。

「春風」のこと

伯父が保管している同じ写真の裏には、下図のような説明がありました。

        乗馬 春風
        尾山福田金治君より譲与
        大正七年春撮影
        大正十一年四月 日死亡
        愛飼十八年間

野村家で愛情を持って18年間飼育した後に、大正11年(1922年)に死亡したということは、尾山(現奈良市月ケ瀬尾山地区)の福田金治氏から、明治37年(1904年)に譲り受けたことになります。つまり、野村医院開設から7年後に野村医院に来てくれたのです。

この手の逸話は日本全国に沢山言い伝えられているでしょうが、我が家に伝わっている次の話を書き留めておきます。
『千太郎は、往診先でお酒を頂くことが多かった。お酒に酔いつぶれても、春風は勝手に家まで連れて帰ってくれたという。』
馬は、帰省本能が強いし、自分の馬房が一番お気に入りなので、主人が寝ていても酔っ払っていても、乗せて帰るのでしょう。

馬の身長は、地面から首の付け根までの高さ「体高」で表す。

この写真の背景のガラス戸は、オールドクリニックに現存します。
高さが180㎝程度なので、そこから推測しますと、
春風の体高(身長)(地面から首の付け根まで)は140∼150㎝程度でしょうか?
和種か、あるいは、西洋馬との中半血かと想像します。

春風の、前髪や鬣を見てほしい。剛毛の縮れ毛。
春風の、四本の脚を見てほしい。ごつい!
サラブレッドのようなスピードも優雅さもありませんが、
武骨で頑丈そうな馬体が、見て取れる。働き者の姿です。

もともとは農耕馬だった馬だったのでしょうか? 
福田金治氏のもとから、どのようにして譲ってもらったのか、一切情報はありませんが、
明治から大正期の田舎道を、春風はしっかりした足取りで曽祖父の往診を手伝ったに違いありません。

なぜ尾山の福田氏なのか?

ところで、最近、尾山には野村医院の出張所があったことが判明しました。
私達の世代の野村家のメンバーは誰も知らなかったので、とても驚いているのですが、色々な薬礼(やくさつ)が詰まった引き出しの中から、下に示したような「尾山出張所」と明記されたものを発見しました。

尾山の福田氏から馬を譲られたことと、尾山出張所を開設したことは、決して無関係ではないでし与ょう。
「譲与」という言葉を、今までは「購入した」と理解していましたが、
「出張所」開設とともに、そこに通勤する手段として譲られた?可能性もあるかもしれません。
すべては、推測の域を出ませんが、尾山との関連を今後も引き続き調べていきたいと思います。

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馬装に注目

鞍も鐙も、まことにシンプルな造りです。
千太郎の乗馬の腕前はどうだったのでしょう?
どこで乗馬を覚えたのでしょう?
千太郎も軍医だった時期があるから、そこで乗馬もやったのでしょうか?
まるで情報はありませんが、この鞍は相当に使い込まれているように見えます。

鞍の前に、縦長の鞄が付いています。
想像するしかないが、曽祖父はここに医療道具や薬などを入れて往診したのかもしれません?

残念ながら、馬の馬装品は、なにひとつオールドクリニックには遺されていません。

撮影者は、月ケ瀬の「西浦写真館」

大正7年(1918年)に、オールドクリニックの前で春風を撮影したのは、「大和月ケ瀬石打・西浦写真館」でした。
既に写真館は廃業されているようだが、当時、月ケ瀬梅渓は名だたる観光地であったため、写真館も大賑わいだったことでしょう。
そんな写真館が、隣村とはいえ月ヶ瀬村(現在の奈良市月ケ瀬)からわざわざ出向いたのだから、春風がどれほど可愛がられていたか想像に難くありません。

オールドクリニックでの「春風」の展示

オールドクリニックでは、初代、二代、三代院長が用いた往診用の馬と自動車を、医療道具として展示することにします。春風は、実物を再現できないので、伯父から譲り受けたこの写真を、等身大近くまで拡大して、上の写真一番奥のように展示します。
二代のダットサン、三代のトヨタスポーツについては、いずれ別の機会に説明させてください。

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二代院長・清が往診に使っていたダットサンの紹介

こんな薬篭の広告を見つけました。

明治30年代の中外医事新報の広告欄にこのようなものを見つけました。
東京日本橋の医療器具メーカー・販売店が、往診馬に装着したら便利だという薬篭。
7円50銭だという。
このお店の馬具の広告は、明治30年の医事新報のほとんどの号に掲載されているから、相当、羽振りも良かったのではないかと推察されます。

春風が着けているものとは、多少形が異なるけれど、当時は馬による往診が全国津々浦々で見られた、ありふれたことであることがこの広告からも見て取れます。

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2022年8月加筆)稲荷川の橋のこと

2022年(令和4年)7月、三ヶ谷(山添村の地区)のFさんから、こんな思い出話を聞いた。

「千太郎さんは、馬でよく往診した。大西(野村医院のある地区)の稲荷川に架かる稲荷橋まで帰ってくると、当時の木製の橋は、馬が通ると蹄の音がよく響いたらしい。家族は、その橋を渡る蹄の音を聞いて、千太郎が往診から帰ってきたことを知ったのだそうです」

なんとも長閑な話ではないか。
今から100年以上前の話題。話を教えて下さったFさんも、もちろん、まだ生まれる前の話。
彼女のお母さまから聞いたのだと。
診察中に、私の祖先のことを、昔からの患者さんが、このように話してくださることが、とても嬉しい。

昭和30年代の大西の風景。県道80号線が集落の手前右に急カーブするのは、今も同じ。
よく見ると、この集落の手前、床屋さんのたもとに、稲荷橋が架かっている。
右奥の一番大きな家が、野村本家。
あの時代ならば、木造の稲荷橋を渡る馬の蹄の音が、
集落に響いたというお話しも頷ける風景である(写真は「波多野村史」から、p89)
春風

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
令和3年秋からは、村会議員にも選んでいただきました。野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出し、また、地域の問題に少しでも取り組んでいけるよう努めております。。
若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 信ちゃん 凄いね。
    良く調査されましたね。
    初代の方は馬で往診されましたか。
    想定外で万馬券でしたね。驚きました‼️

  • 倉西さん、コメントありがとうございます。
    この体型の馬なら、下津から嵩を越えて、そして名張川を越えて尾山へと、しっかり連れて行ってくれたのではないかと想像しています。

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