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絆リレー祭2023
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千太郎のペンネーム「梅都山人千秋」 明治・大正時代の月ケ瀬の繁栄と野村医院 オールドクリニックのすべて/その伍

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目次

はじめに

こんにちは。
今日は、山添村の北隣・旧月ヶ瀬村と野村医院の関係について述べたいと思います。
月ヶ瀬村は、平成17年(2005年)に奈良市と合併して行政区ではなくなりましたが、今も「月ケ瀬」は、見事な梅渓の里として名を馳せています。

オールドクリニックに遺る初代千太郎の医学部時代の授業ノートには、彼のペンネームともいうべき「梅都山人千秋」という名前がたびたび現れます。
おそらく、
●梅都=梅渓で名高い月ケ瀬のこと
●山人=山間部の出身であること
●千秋=素直に解すと「長い年月」ということか
こんな意味を込めたネーミングなのでしょう。

「梅都山人千秋」の三例(左から、組織学、病理学、内科学のノート表紙)

千太郎の数々の医療器具や遺した品々を整理しブログにまとめているうちに、そして、このペンネームのことを考えていると、彼と月ケ瀬との関連が、とても強かったのではないかと考えるに至りました。

学生時代のノートですから、20歳をすぎたばかりの若者のすることです。
奈良の辺鄙な山村から大阪に出て、秀才たちと肩を並べて勉学に勤しんでいたことでしょう。
当時の若者は、漢詩風のペンネームを自ら冠することが流行っていたのかもしれません。
千太郎が師事した先輩医師・村田豊作も、「才木田人」というペンネームで学生時代に戯曲を創っています
それに倣って、故郷に近く世にも名高い月ケ瀬をイメージする「梅都山人」を名乗ったのではないかと想像しています。

明治20年以降の月ケ瀬は、まさに一大観光地として、まさに勃興期を迎えていたのでした。
その人気は、現代のそれとは比較にならないほどのものでした。
まずは、その月ケ瀬の歴史を簡単に振り返ってみます。

梅の都 江戸・明治期の月ケ瀬の賑わい 

江戸時代の月ケ瀬

斎藤拙堂「月瀬記勝」より

江戸時代の半ば、都市部の庶民の消費生活が、山村や漁村にも刺激を与えるようになっていました。各地で特産品が生産され、商品がさかんに流通するようになりました。江戸時代の市民文化の興隆した時期です。
月ケ瀬の村々では、18世紀半ばから大規模な梅の栽培が始まりました。
梅の実を烏梅に加工し、絹布の媒染剤として京都に送り出したのです。南北朝時代に始まった月ケ瀬の烏梅は質の高いものとして需要が高かったのです。その結果、この地域では、ますます梅の栽培が加速し、後に「月ケ瀬梅渓」「月瀬梅林」と呼ばれる観光地になる基となりました。

江戸時代の後半には、梅の名所として知られるようになっていたものの、辺鄙な地域ですから、大勢の人が物見遊山にやって来るのは、まだ先のことです。
月ケ瀬人気のきっかけを作ったのは、高名な儒学者が著した紀行文でした。
津幡の儒者・斎藤拙堂の「梅渓遊記・文政13年(1830年)」や「月瀬記勝・嘉永5年(1852年)」がその名を高める重要な役割を果たしたのです。
その時代、文人や知識人たちの間では、仲間と共通美意識の元に(あるいは、そんな美意識を求めて)、景勝地を遊覧し漢詩文を叙すことが流行していました。拙堂の記したこれらの紀行集は、多くの人たちにバイブルのようにもてはやされ彼らを月ケ瀬に誘うこととなったのです。

伊賀から三里、奈良から五里を徒歩で、人々は月ケ瀬を訪れました。
月ケ瀬の民家に投宿しながら、梅の季節に滞在し、詩を詠み宴を開いたのです。知識人たちは、拙堂の紀行文を携え、その美意識を倣い、また独自の旅情を記していきました。

嘉永年間には、すでに、村人の中に旅館や宿泊施設を営む者も現れるようになっていたようです。文人たちの案内役を引き受け、拙堂の漢詩を暗記し口ずさみながら観光ガイドする達者な村人もいたと言われています。

斎藤拙堂「月瀬記勝・嘉永5年(1852年)」から抜粋。
月ケ瀬の各地区と伊賀との関連を示した図。
中峰山、吉田、廣瀬、片平、獺瀬(うそせ)(遅瀬の一部)など、山添村旧波多野地区の地名も認められる。
これらの地区は、当時津藩の領地だったところも多かった(地図には、「津領」と注釈がある)。
「小塩」は、現在の大塩のことか。

明治・大正時代の月ケ瀬

明治時代になると、景勝地への遊行は文人や知識人だけでなく、一般庶民にまで広がりました。
新聞は、観光地への周遊体験レポートを連載したり、桜や梅の開花予想を掲載して、この流行を手助けするようになりました。

相変わらず多く人たちは徒歩で月ケ瀬を目指しましたが、奈良や伊賀の町から人力車も人々を運ぶようになりました。運賃も一定額が取り決められていきました。月ケ瀬までの山間部の道路も整備されていったことが伺えます。

明治20年代になると、大阪鉄道が、大阪から奈良まで開通。さらに関西鉄道が、四日市・草津から柘植まで開通しました。これらの会社は、月ケ瀬の観梅期に合わせて運賃割引切符や人力車切符を発売して、旅客数の増加を図るようになりました。といっても、花見客は、奈良駅や柘植駅から人力車や徒歩で月ケ瀬まで行くわけですが。
時代が下り、鉄道路線を拡大すると、最寄りの駅は、西は笠置駅、東は島ケ原駅になりました。これらの駅と月ケ瀬間を往来する人力車が、シーズンにはひっきりなしに往来したようです(ちなみに、国鉄関西本線の「月ケ瀬口」駅ができたのは、戦後のことです)。

尾山地区を中心に、月ケ瀬には宿泊施設も充実するようになりました。
明治10年代には2軒しかなかった旅館が20年代には9軒に増えました。この頃、旅館や、民家、宿坊などに投宿する者が一日に千人を超えることも珍しくなかったようです。 
30年代には、当時「ハイカラ」の代名詞だった自転車を訪問客に無料で貸し出したり、仮設ビアホールが開設されたりして、すっかり月ケ瀬は新しい風俗が持ち込まれた一大観光地となっていたのです(その一方で、烏梅の生産や販売は人工染料の発達とともに衰退していきました)。

戦前の集大成は、大正11年(1922年)に、月ケ瀬梅林が、我が国最初の「名勝」指定を受けたことです。
なんと、「奈良公園」や「兼六園」と一緒に指定されたのです。これらと肩を並べていたということですから、月ケ瀬のすごさが分かるというものです。蛇足ですが、この名勝指定には、山添村(旧波多野村)出身の奈良県会議長・中西楢治郎氏(1874‐1934)の尽力に負うところが大きかったと言われています。当時から、山添村との関りを示す事柄として申し添えます。

近隣の村人にとって、月ケ瀬は羨望の的だったはずです。千太郎は、明治2年生まれですから、月ケ瀬の賑わいを波多野村から、ずっと見ていたに違いありません。
大阪府立医学校の同僚に故郷を訊ねられたら、きっと「月ケ瀬の隣」って答えたと思います。「波多野村」って言っても誰も知らなかったでしょうから。だから、授業ノートの表紙に「梅都山人千秋」と自ら名乗ったのではないでしょうか?

かくいう私も、そうでした。「山添村、知らないよね、そ、月ケ瀬と伊賀と柳生と天理の間!」っていつも説明していましたから。

オールドクリニックに遺る月ケ瀬との関りを示すもの

ふたつの代表的なものを取り上げます。
旧波多野村(現山添村)大西にある野村医院と月ヶ瀬村の、当時の関りが見えてきます。
それぞれをブログ記事にしていますので、そちらもご覧ください。

尾山出張所の薬票

この薬票は、大正年間に、野村医院の出張所が、月ケ瀬の中心地「尾山」に存在していたことを端的に示しています。
残念ながら、野村家や私の知人に、この出張所のことを知る人、覚えている人は一人もいません。資料も現在皆無ですので、詳細は謎です。
しかし、初代千太郎が関わったことは間違いないでしょう(二代目清は、大正10年に医師になっているが、すぐに出張所に関わるとは考えにくい)。

色々な可能性を想像することになります。
 ・この出張所は、常設施設だったのか、それとも、千人も宿泊することがある観梅期だけの季節的なものだったのか?。
 ・尾山まで診療に来た千太郎は、日帰りで山添村まで帰ったのだろうか? 宿泊したのだろうか?
 ・波多野村から月ケ瀬村まで、どの道を行き来したか? 五月橋の完成は昭和3年であるから、やはり下津・嵩経由か? 
 ・誰か、診療所を手伝った人がいるにちがいない。診療のサポート、家屋や出資金の提供など。
 ・日本一の梅渓として名高かった月ケ瀬地区の野村医院の出張所開設が、新聞や村報などの記事に残されていないか?

明治・大正期の月ケ瀬村の医療事情

当時の月ケ瀬村の医療事情はどうなっていたのでしょうか?
月ケ瀬村史(平成2年刊)によると、明治後半から大正期、月ヶ瀬村は無医村ではありませんでした。
尾山地区には、大正初年から15年まで力岡立峯医師がいたと紹介されています。桃香野地区には、明治40年頃から大正期に乾源四郎医師が開業し、広範囲に往診もしていたとも記されています(p486)。
それにもかかわらず、遠く離れた(直線距離にして5km以上)隣村の開業医・千太郎が、出張所を設けたのはどういう経緯だったのでしょう?

残念ながら、月ケ瀬村史には、野村医院尾山出張所のことは、一切触れられていません。
ただ、名誉なことに、こんな一節があったので、紹介させてください。
『近くには大西の野村医院があって、嵩や月瀬(地区)の人々はその医師のお世話になった』と、戦前までの医療を振り返る項目の中に書かれているのです。野村医院を引き継いだ私としては、隣村の村史にまでこのように祖先の活躍が記載されていることを誇りに思います。
平成になって刊行した月ケ瀬村史にわざわざこのような一文が載っていることは、下記のような父(3代院長・和男)の戦後の医療が大きく寄与しているかと思いますので、これも蛇足ながら付け加えさせてください。

戦後の野村医院と月ケ瀬の関係

実は、昭和60年頃まで、私の父は、月ヶ瀬村の月瀬地区には、毎週”往診”に行っていました。
「出張所」ではないものの、大きな民家の「離れ」はまるで、「仮設診療所」が如き”賑わい”を呈していたのです。高齢の患者さんが集まって父の来診を待っていらっしゃるのでした。”往診”というよりも、”集団訪問診療”みたいなものです。

私も、父が入院した時、代診医として、何回かそのお宅の離れにお邪魔したことがありました。待っている皆さんは、リラックスそのもので、大きな部屋は元気な年配者の”溜まり場”の如き様相を呈しておりました。
父の代わりにやって来た三十路を過ぎたばかりの私を迎えて下さるのですが、当の私は、冗談も言えず、その場を和ませる方法を模索するも、順番に、血圧を測定し、聴診したり、注射したりするのが精いっぱい。ものすごく大変だった記憶があります。私には、地域の高齢者が、どうしてこのような集団の診療を、かくも有難がってくださるのか理解できませんでした。父といかなる関係が築かれてきたのか、想像することも困難でした。

”往診先に地域の人が集い医師を待っている”という診療形態は、交通が未発達な時代には、全国どこでも見受けられたことだと思いますが、月瀬地区のそれは、曽祖父が始めた「尾山出張所」の流れをくんでいたものだったと、私は考えたいです。

あの頃、「尾山出張所」の存在を知っていたら、きっと話題にして昔々のことを尋ねたはずです。
あの頃、父でさえ「尾山出張所」のことは、一切話しませんでした。おそらく、彼も知らなかったのでしょう。

往診馬を譲ってくださった月ケ瀬・尾山の福田さんのこと

もうひとつは、千太郎の往診馬・春風のことです。
月ケ瀬・石打の西浦写真館が撮影した春風の肖像写真の裏には、上記のように「尾山福田金次君より譲られた」と墨書されています。18年間飼育した後、大正11年(1922年)に死亡したとあるから、明治37年(1904年)に譲られたことになります。

ずっと春風は、野村医院の往診のために千太郎が手に入れたものと考えておりましたが、もしかすると、尾山の出張所に通うことが一番の目的だった可能性も出てきました。
尾山出張所開設にあたって、それを推進してきた福田金次さんをはじめとする方々が、交通手段として「春風」を提供してくださったのかもしれません。単に自院の馬として購入したのであれば、わざわざ誰それから譲られたと記載するでしょうか? 

現在も、尾山には福田姓の方々が数軒お住まいですので、いつか訪ねて、お話しをしてみたいと思っています。

未解決ながら、今日の結論

初代千太郎の学生時代のペンネーム「梅都山人千秋」を元に、当時の山添村と月ケ瀬村の関係に想いを巡らせてみました。
月ケ瀬村は、昭和30年代に隣村に生まれた私達の世代でさえ輝いていましたが、同村の歴史を紐解いてみると、明治・大正期には、想像もつかないほど燦然と輝く存在だったことを述べました。
千太郎が、ペンネームに「梅都」と冠したことも、十分あり得ることだと認識できました。

しかし、学生時代に留まらず、医師として故郷・山添村に戻って開業する傍ら、月ケ瀬地区と強い関係を築き維持したことは明らかなのですが、そこに至る経緯は現在も不明のままです。

また、尾山出張所の場所、正確な存在時期、規模なども、まったく不明のままです。
今後も調査を続けていきたいと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
令和3年秋からは、村会議員にも選んでいただきました。野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出し、また、地域の問題に少しでも取り組んでいけるよう努めております。。
若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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