はじめに
明治維新から終戦まで、大阪城とその周辺は、現在のような娯楽やスポーツ施設はなく、人々が簡単に立ち入ることが出来ない場所でした。陸軍が諸種の施設を置き、周りには兵器工場が立ち並んでいたからです。それから70年以上も経た令和4年11月、私はそんな時代の痕跡を探して、古い地図を頼りに歩いてみました。
実は、ここまで紹介してきたように、曽祖父も祖父も、陸軍医の経歴があります。ともに、大阪と深い所縁のある陸軍第四師団に関連する軍歴があったのです。
今回、大阪城とその周辺を歩いてみて、たしかに曽祖父や祖父、そして父が、そこを闊歩していたことを確信し、その時代にタイムスリップしたような錯覚に陥ってしまいました。
そんな感覚を、このブログで皆様と共有してもらえたら嬉しいです。
軍都・大阪
現在の大阪の街に「軍都」の面影はありません。庶民の街、お笑いの街、そんなイメージがありますが、かつては陸軍第四師団をはじめとする陸軍の施設が所狭しと立ち並び、軍事工場が林立する街だったのです。軍人や工場で働く人々で賑わっていたのです。
第一次世界大戦では、ドイツの捕虜収容所は徳島県が有名ですが、実は大阪にも数多くの兵士が連れてこられて収容されていたくらいです。第二次世界大戦末期には、米軍から大阪の軍事施設は格好の標的にされ、激しい爆撃にあいました。平和な現在では、大阪がかつて軍都であったことなど、想像さえ難しくなっています。
そんな軍都への道は、明治維新と共に始まりました。
徳川幕府を倒した明治政府は、富国強兵に邁進します。商いの街だった大阪を復興させるために、大阪城という要塞があり、水運も整っていたことから、大阪の街全体を軍事工場や兵器の管理をする「軍都」にする計画がもちあがりました。大村益次郎が練った軍都大阪構想は実行に移されていきます。既に、日清戦争・日露戦争で使われた兵器の多くは、ここ大阪砲兵工廠で生産されたものだったといいます。
その後「東洋一」とまで言われるほどに巨大になった大阪砲兵工廠は、その代表格です。現在の大阪城公園の南部一帯から大阪ビジネスパークあたりまで約130万平方メートルの敷地内に、何百もの工場があり、関連した施設や工場などに勤める人は、数万人にも膨れ上がっていました。
国会図書館に、当時の砲兵工廠が城郭内にあったことが良く分かる写真が保管されています(下図)。
今も遺る軍都大阪の跡、戦争遺産
現在の大阪城公園の中にも、多くの施設の痕跡があります。
最も有名なものは、第四師団司令部庁舎です。戦後は、連合軍に接収されたり、府警本部庁舎になったり、さらに平成13年までは大阪市立博物館として長く利用されました。現在はミライザ大阪城というレストランなどが入る施設になっている地下一階地上三階の建物です。天守閣に登る時、右手にある西洋の古城を彷彿とさせる建物ですから、皆さんもよくご存知でしょう。
実は、これは、昭和6年・1931年、大阪城天守閣とセットで建築されたものです。
城郭内には軍の様々な施設があった、というよりも、軍が所轄する場所だったのでこの一帯は、一般人は立ち入り禁止でした。ところが、昭和御大典記念事業として大阪市が本丸の公園化および天守閣再建を計画したことにより、大阪府民から150万円もの寄付が集まりました。陸軍と交渉した結果、軍司令部の建物を寄付する代わりに、復興天守閣を一般民の見物もできるようになったのです。
その結果、大阪城天守閣に登った見物客は、軍司令部を見おろしたり、最高機密ともいえる軍事工場を俯瞰することができるようになったのです。今から考えても、とても「ちぐはぐな」ことがあったものです。満州事変と同じ年のできごとです。
ふたつ目の遺構は、これでしょうか。大阪城天守閣に登り北側を眺めたら目に入ってくる化学分析場跡(下の写真)です。大正8年・1919年に建てられたネオ・ルネッサンス風赤レンガ造りの建物。新兵器の開発や化学実験が行われた陸軍の重要施設です。戦後は、大阪大学工学部の校舎や自衛隊の庁舎として使用していた時期もあるようですが、今は閉鎖され廃墟と化しています。
この辺りには、たくさん旧陸軍所縁のものが今もあります。また、大阪大空襲の被害跡も数多く遺っています。しかし、この項ではテーマが外れるので、これくらいにしておきます。
興味ある人は、いろいろなブログやホームページがありますから、検索してみてください。
野村家歴代の軍歴
初代・千太郎(明治2年・1869年~昭和12年・1937年)
本稿執筆中の令和4年末現在、分かっていることを記します。
明治2年(1869年)1月12日に旧波多野村(現在の山添村)春日の井戸家に生まれました。明治27年(1894年)3月、府立大阪医学校を卒業し、ただちに第四師団陸軍予備病院に勤務。大阪連隊徴兵検査員もつとめました。
その後、千太郎は府立大阪医学校付属病院外科勤務を経て、野村家の養嗣子となり明治30年(1897年)12月から、野村医院を開業しました(以上の経歴は、昭和57年・1982年刊「奈良県医師会史・前編」p534からの引用。おそらく三代・和男が執筆したもの)。
当家には、明治29年にその病院で千太郎が担当した手術記録が保管されています。当時の説明(記録写真の裏面)には、「陸軍御雇医師、井戸千太郎」と記載されています。
彼の勤めていた陸軍予備病院は、いったいどこにあったのでしょう?
ちなみに、この手術を受けた人夫が馬に咬まれて怪我をした「城南練兵場」は、大正時代の地図(下記・和男の項)にしっかり明記されています。
千太郎が勤めた病院は?
明治時代に発刊された大阪城周辺の精巧な地図が公開されています。
前述のように、明治半ばには、まだ天守閣は再興されていません。
場内は軍事施設もあるけれど、荒れ地部分が多くを占めていたようです。
そんな中に「鎮台病院」と書かれた施設を見つけました。
明治当初、大阪に置かれた部隊は「大阪鎮台」でした。明治21年・1888年に鎮台制が廃止され「第四師団」に移行しました。ですので、同年に発行されたこの地図には「鎮台病院」と記載されていたのでしょう(おそらく、測量はもっと以前であしょうし)。
おそらく、これが千太郎が、恩師村田豊作とともに務めた病院だったに違いありません。
二代・清(明治31年・1898年~昭和47年・1972年)
千太郎の長男・清のこと。
明治31年・1898年生まれの清は、大正10年(1921年)に岡山医専を卒業し、その年に第四師団歩兵第38聯隊に入隊しています。同聯隊は、前年まで大連や旅順の警備についていましたが、京都に帰着し、翌大正11年に奈良に駐屯しています。つまり、清は、帰国した聯隊に入隊したということになります(同14年除隊)。
彼の残した履歴書を見ると、それは「一年志願兵」という制度で、官立学校や師範学校の卒業生は、自分で入隊先を決めることが出来たのです。
父(千太郎)所縁の第四師団麾下の、そして、京都・奈良に駐屯した歩兵第38聯隊を選んだと推察します。
実は、二代・清は、戦争に最も翻弄されました。
第二次世界大戦の間に、二回も招集されているのですから。清の詳しい軍歴は、項を別にして紹介していますので、ぜひお読みください。
三代・和男(昭和2年・1927年~平成22年・2010年)
昭和2年・1927年に大阪で生まれた和男(私の父)は、偕行社附属小学校に就学していました(推定・昭和8年から)。
清は、除隊後、大阪市内で開業していましたから、彼の7人の子供のうち、上の5人は大阪で生まれています。
軍人まがいの肩章や勲章をつけた制服、ピッカピカの革靴、次男なのに日本刀を持って、5人の兄弟たちの真ん中にふんぞり返っている写真(下)が遺されています(野村栄作氏提供)。偕行社付属小学校は、陸軍将校の子弟の教育を目的に設立された学校でした。彼の父(つまり二代・清)も祖父(初代・千太郎)も、すでに兵役を全うしていましたが、偕行社小学校に入学を許されたのでしょう。当時の帝国の少年たちと同様に、武勇を尊び兵士になることも辞さないと、すでに考えていたかもしれません。「ゲートルを巻いて毎日小学校に行った」と父は思い出を語ってくれたことがありました。
清が山添村に戻ったために、父もこの小学校を3年生の頃、中退したようです。
和男が通った小学校はどこ?
大正2年発行の大阪市街地図があります。
大阪城周辺も詳しく見ることが可能です。
そこに彼が通っていた小学校を見つけることが出来ました。
現在の追手門学院小学校ですね。
今回の旅では立ち寄ることが出来ませんでしたが、この場所には、当時の「大阪偕行社の門柱」が遺されているようです。
いずれ見学したいものです。
★ ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
私の曽祖父、祖父、父が、若い頃、喧噪の中で、はつらつと働いていた大阪を想像できましたか?
実は、大阪は、母・正子(和男の妻)の故郷でもあります。
こんな大阪を、私も大好きですが、野村家との繋がりを「軍都」の視点で眺めてみて、ますます親しみを感じるようになりました。
今日はここまでです。ご意見をお待ちしております。
コメント
コメント一覧 (2件)
名張市立病院での患者、小堀礼子です。
時々、の村先生のブログやFacebookをこっそり覗かせていただいております。
Facebookの方に野村医院開院125周年記念講演会の記事がありました。先ずは125周年おめでとうございます。又このオールドクリニックのすべて/その五の記事でも先生の野村医院愛がひしひしと感じられます。記念講演会はイベント#1との事。あいにく参加は出来ませんがどんな内容だったのか等を載せてくださるのを楽しみにしております。先生!きっととても忙しくされているのでしょう。どうかご自愛くださいますように!
お便りをこのコメント欄にしましたことをお許し下さい。 かしこ
小堀さん、メッセージをありがとうございます。
暖かい言葉をかけてくださり、嬉しいです。
記念講演会のこと、改めて報告しますので、お楽しみに。
どうかお元気で。