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『やまぞえ絆リレー祭2023』11月3日 開催決定!

サルバルサン 世界初の化学療法剤 オールドクリニックの収蔵品㉒

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目次

Salvarsan サルバルサン 梅毒の特効薬

An old set of Salvarsan for the treatment of syphilis.
Late 1920s.
Made in Germany, Product by Bayer-Meister Lucius Goumei Kaisha (IG Farben Japan Division)

Salvarsan was the historic and breakthrough drug invented in 1910 by P. Ehrlich and Sahachiro Hata. The treatment of syphilis was dramatically improved and had helped many people.
Since it is a drug containing arsenic, it was necessary to start with a small amount and gradually increase it. This is the reason why our Old Clinic Museum has three types of ampoules: 0.15g, 0.30g, and 0.45g.

Even so, the medicine at the time was stylish even in packaging.
These had been hidden in a small box at the back of the medicine cabinet at our OLD Clinic for long time.

Today, safer therapies such as penicillin have been developed and this agent Salvarsan ended its role.

古いサルバルタン注射薬(梅毒の治療薬のセット
1920年代後半
ドイツ製 バイエル・マイステル・ルチウス薬品合名会社(ドイツIG Farbenの日本事業部)の製品

サルバルサンは、1910年にドイツの細菌学者エールリヒと秦佐八郎が共同で開発した世界で最初の化学療法剤です。これによって梅毒の治療法は画期的な進歩を遂げました。それまで、梅毒には水銀軟膏を皮膚に塗るくらいの治療しかなかったので、最終的には多くの患者さんは神経梅毒にまで進行して亡くなるしかなかったのです(ベートーヴェンもレンブラントも梅毒だったと言われています)。

この薬剤には、ヒ素が含まれているので、少量の注射から開始し、徐々に増量していく方法がとられていました。
だから、野村医院にも容量別に三つのアンプルが遺されているのです(左から、 0.15g, 0.30g, and 0.45gのパッケージ)。
それにしても、当時のお薬というのは、包装まで洒脱ですね。
オールドクリニックの奥の部屋の薬棚の、そのまた小さな箱に隠すように保管されていました。

今日では、ペニシリンなどの有効で安全な治療薬が開発されて、サルバルタンの役目は終えました。

下の説明書によると、さらに小容量0.02、0.05、0.075gのアンプルもあったようです。
「瓦」はグラムのことです。
使用説明書の最後に記載されている会社名

秦佐八郎と野村清、野村医院の梅毒治療とサルバルサン

この会社名が、まず気になります。
イー・ゲー・染料工業株式会社(IG Farben)とは? 第一次世界大戦に負けて、連合国によってドイツの製薬会社を含むいくつかの企業は、解体再構築されて複合体(トラスト)になったらしい(大正15年・1925年)。その複合体をIG Farbenと称したようです。そして、IG Farbenの日本国内での製薬事業部が Bayer-Meister Lucius合名会社と名乗ったと考えられます。
ドイツの製薬会社というのは、産業革命以降、石炭・石油の精製の過程で生じる様々な化学物質を染料などに加工していく会社が母体となっています。日本のように、生薬の管理・売買から始まったものとは、起源が全く異なります。

次に、この薬品のミオ・サルバルサンという名前も気になります。
エールリヒと秦が、最初に見つけたサルバルサンよりも、さらに副作用が少ないヒ素化合物を見つけて、ネオ・サルバルサンと名付けたと言われていますが、それとも異なる「ミオ・サルバルサン」とは?
あくまで推測ですが、IG Farbenの製品となると、従来の薬品名が使えなくなり、筋肉注射薬なので「ミオ(myoとは筋肉を表す接頭語)」を付けたのでしょうか?

いずれにせよ、本剤は、IG Farbenが設立された1925年以降に輸入されたものであることは明確です。

♣前項でもお話ししたように、大阪分院(二代目・清が1935年昭和10年ころまで中津で開業)では、かなりサルバルサンを使用したのではないかと考えられます。看板に「花柳病」と謳っていたくらいですから。
♦♦♦
余談ですが、秦佐八郎は、清の母校・岡山医学専門学校の先輩にあたります。
明治28年(1895年)卒業ですから、大正10(1910年)年卒の清とは15年の隔たりがありますので、接点はなかったかもしれません。けれど、清が卒業したその年に、秦はドイツでサルバルサン発明の偉業を成し遂げます。すでにドイツへ発つ前から、秦は秀才の誉れ高く同窓生の英雄的存在だったでしょうが、後輩にはますます偉大で憧れの科学者になったことでしょう。
この発見は、清にも少なからず影響を与えたことは想像に難くありません。

エールリヒと秦佐八郎
Wikipediaからの引用

♣一方、本院である山添村の野村医院ではどうだったのでしょうか?
たとえ、山添村のように真面目で品行方正な人が多い村(?)でも、やはり、梅毒患者さんはいらっしゃったと思います。
たとえば、上に示した軟膏は、黄降汞(おうごうこう)
サルバルサンが商品として世に出たのが、明治43年(1910年)です。  
アスピリンと同様に、世界中にあっという間に受け入れられ、日本でもすぐに導入されました。
やはり、第一次世界大戦ではドイツからの輸入が途絶えて、国中で困ったはずです。

明治2年(1869年)生まれの初代・千太郎は、その頃40歳代前半。
後年、持病の糖尿病に苦しみますが、この頃は、まだまだ体力気力もあり、新しい医療を取り入れていく力はあったことでしょう。
きっと、彼も新薬・サルバルサンが必要な患者さんに注射したと思います。
しかし、もう少し年代が下った昭和初期、大阪での梅毒の治療経験が豊富だった息子・清に、サルバルサンのより良い使い方を訊ねたりしていたのではないかと思ったりしています。

しかし、どれくらいの治療が行われたのか、まったく資料も情報もない状況ですので、すべてが推測です。
こうやって眺めてみると、大正から昭和初期というのは、それなりに劇的な薬や治療法が開発されていた、とてもエキサイトしそうな時期だったのですね。

スピロヘータ、 Treponema pallidum、 サルバルサンの語源

Treponema pallidum の電子顕微鏡像
Wikipediaからの引用

ドイツの細菌学者エールリヒと日本の細菌学者秦佐八郎が、挑んだ挑戦は、「1905年に発見されたばかりの梅毒の病原体(スピロヘータTreponema pallidum)に対する中毒量と人間に対する中毒量が最も乖離しているヒ素化合物こそが、梅毒治療薬として期待できる」というものでした。
ひとつひとつの化学物質を検証して、ついに606番目の試薬品であったことから、通称「606号」とも呼ばれていたらしい。

スピロヘータの語源は、別項で既に述べました。アスピリンとさえ関連がありますので、良かったら読んでみてください。
Treponemaは、 trep「回す」+nema「糸」。スピロヘータの語源と似ていますね。
Pallidumは、この病原体は、青色っぽく見えるらしい(見たことないですが)。英語でも青白い人をpaleと、カルテに書きますよね。
サルバルサンは、salvare(救う)salus(健康)+ arsenik(ヒ素)を組み合わせた製薬会社の造語だそうです。

スピロヘータの語源について言及しています
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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
令和3年秋からは、村会議員にも選んでいただきました。野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出し、また、地域の問題に少しでも取り組んでいけるよう努めております。。
若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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