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絆リレー祭2023
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明治34年の顕微鏡 オールドクリニックの収蔵品①

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オールドクリニックに関するブログは、二つに大別できます。
・その時代背景や医療事情などを私のエッセイとして
・オールドクリニックに遺された物品(収蔵品)の解説


今日はその収蔵品① 顕微鏡について書かせてください。

目次

カールライヘルトCarl Reichert社製顕微鏡 
Early brass microscope by Carl Reichert

顕微鏡はオーストリア製

当館収蔵の主だった医療器具のなかで、唯一の外国製かと考えられる(薬品などの消耗品は除く)。

Carl Reichert カールライヘルト社(オーストリア・ウィーン)製 高さ約25㎝、本体は真鍮。
おそらく1890年前後の頃、生産されたものか。
3種類の対物(x3、x6、x8)、2種類の接眼(x2、x4)レンズ付き。

This is our early brass Microscope by Carl Reichert (1851–1922).
Vienna, made circa 1890,
signed on base “C. Reichert, and numbered “No. 19956.”on another side of base. 
This set is still kept wit three objectives (3, 6 and 8), two eye-pieces (2 and 4), and original wood case.
Purchased in May 5th, 1901, by the first director, Sentarou.
This microscope had been used in our clinic for three generations until the early 1970s.

反射鏡とC. Reichert Wienの刻印
製造番号 No. 19956は、
松本儀兵衛店の伝票と一致する

カールライヘルト社は1876年(明治9年)創業で、1930年までに10万台以上の顕微鏡を生産した世界的なメーカーであった(その後、会社は買収などで転々とするが、1999年まで顕微鏡を生産したようである)。第一次世界大戦まで、オーストリアは、中央ヨーロッパの強国で、その力はドイツやフランスをも凌駕するほどであった。工業国でもあった。

購入は明治34年(1901年)

購入先は、我が国の医療機器販売会社の草分け「松本儀兵衛医療器械店」で、その伝票から、購入期は、明治34年(1901年)5月5日と考えられる。 
野村医院を開業して4年目に高価な顕微鏡を備えたのであるから、医院経営は順調だったのだろうか?

明治時代の医療器具販売店のカタログなどを参考にすると、おそらく明治30年代、このレベルの輸入顕微鏡は附属品などを合わせると、少なくとも100円前後したはずである。明治時代半ばの開業医の収入は年収500円程度と言われているので、かなり無理して買ったのではないだろうか? (その後、正確な値段が判明したので、最下段を読んでください)

一説によると、松本儀兵衛店は一年で300台程度を売り上げていた有力な医療機器販売業者( 立川昭二著・明治医事往来より) 。
細菌学が勃興し、医療界の花形だった18世紀後半~19世紀初頭は、大学病院や有力な開業医に販路を広げていたのであろう。
野村医院も田舎の開業医とはいえ、感染症診療が最も大事な医療であった当時、顕微鏡を揃えなければならなかったに違いない。

松本儀兵衛店の伝票
屋号「鰯屋」(”いわし”の”わ”は変体仮名づかい)は、江戸時代から日本橋で医薬品を扱う業者の多くは、
伝統的に「鰯屋」の屋号を名乗っていたという。
この伝票の割印は、おそらく「東京顕微鏡院検定済」であろう。
東京顕微鏡院は、明治24年に諸種の医学検査のために開設した機関で、
検温器や尿の検査なども手掛けていた(立川昭二著・明治医事往来より)

私の思い出

かすかな記憶がある。
父と祖父が、古い診療所で顕微鏡を覗いている姿。
それは、私が10歳になる前であろうから、昭和40年代前半であったろう。
幼い記憶ではあるが、その時の顕微鏡は、このカールライヘルトだったにちがいない。

オールドクリニックの東側の、今日「内科診察室」と呼んでいる部屋の窓際に、少し粗末な木製の机に置かれていたのを覚えている。
この顕微鏡は、反射鏡で光を集めて光源としていたから、窓際に置いて昼間に用いていたに違いない。

何を観ていたのだろう?
喀痰や胸水などの結核菌や、髄膜炎の起炎菌などを調べていたのではないだろうか?
明治時代の後半に流行したペスト菌を恐れながら、プレパラートを覗いていたのだろうか?

実物を見てもらえば分かるが、実に使い込まれている。
プレパラートを乗せるステージなどは、すり減ってしまっている。
おそらく、曽祖父、祖父、父母にわたる三代の医師たちが、70年間にわたって使っていたのだから当たり前のことではあるのだが。
私は、曲がりなりにも腎臓医である。腎臓医も病理標本を自ら見るので、他の臨床医よりも検鏡する機会はずっと多い。それでも、このカールライヘルト顕微鏡のようにステージがすり減るほどに使い込むのはかなり厳しいと思う。

昭和48年、野村医院は県道80号線沿いに移転した。
その前年に、祖父は他界していた。
移転した後、新しい診療所で父が顕微鏡を用いていた記憶は私にはない。また、その形跡もない。
少し乱暴な表現になるが、高度成長期とともに、医療の世界も色々な変化があった。
抗生物質が広く使われるようになり、結核や赤痢や髄膜炎などの疾病が減っていった時代に、診療所において喀痰や胸水、髄液などを検鏡して細菌を同定したりする機会は減った。またその必要性がある患者さんは、診療所で長く診ることなく、専門医のいる病院に紹介されるようになったからである。

追記)松本儀兵衛店の広告発見 顕微鏡の当時の値段が判明!

このブログ記事を書いてから10日目。
明治30年(野村医院創設の年)の中外医事新報(12月5日発行、第425号)が届いた。
その中に、私が探していた松本儀兵衛店の広告と、カールライヘルト顕微鏡の値段が記載されていた(下図)。

オールドクリニックに伝来する顕微鏡は、880倍だから、当時68円だったことが、明らかになった。

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
令和3年秋からは、村会議員にも選んでいただきました。野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出し、また、地域の問題に少しでも取り組んでいけるよう努めております。。
若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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