はじめに
今回は、二代目院長(清、私の祖父)のことについて、書いてみたい。
確認した彼の2種類の履歴書と、二枚の家族写真を紹介しながら、清さんのことを紹介します。
二枚の家族写真
まずは、野村家の二枚の家族写真。
戦争中と、戦後すぐに撮影されたもの。
第二次世界大戦によって、野村家がいかに翻弄されたかを物語っている。
昭和13年の家族写真
一枚目の写真は、昭和13年と推測されるもの。
「野村医院」の看板の下に、8人が集う写真。
今日の主人公である清は、この中にはない。
後列右から、清の妻・スズ、清の父・千太郎(初代院長)、遠戚の井ノ尾さん(当時、野村医院の書生を務めてくださっていた)、
前列5人は、清とスズの子供達。右から、長女(4番目の子供)・能子(7歳)、次男・和男(11歳)(私の父)、四男・勝彦(5歳)、長男・俊行(14歳)、三男・雅一(9歳)。
清は、昭和13年に臨時招集され、中支に出征した(後述の履歴書参照)。出征先の清に、家族の消息を知らせるために、この写真は撮影されたものと考えられる。きっと清は、写真を何度も見ては故郷の家族を想ったに違いない。
野村家の跡取りであり一粒種であった清の出征に、千太郎は嘆き悲しみ、持病の糖尿病を悪化させたと言われている。この写真からも、彼の憔悴した表情が見て取れる。彼はこの年の12月1日に息を引き取った(享年69歳)。千太郎のことは、こちらのブログに詳述した。
次男・和男(私の父)のこの不安げな顔は、一家の状態と、ここから始まる日本の行く末を表しているかのようである。
昭和22年頃の家族写真
出征していた清と、彼の長男・俊行が無事に生還し、平和な正月を過ごしている野村家の記念撮影である。
清は昭和21年5月に名古屋港に戻ってきたから、昭和22年の正月の撮影であろう。
清の家族9名が勢ぞろいしている。
後列右から、次男・和男(推定20歳)、長女・能子(16歳)、長男・俊行(23歳)、三男・雅一(18歳)、
前列右から、四男・勝彦(14歳)、妻・スズ、六男・秀機(5歳)、清、五男・武昌(8歳)。
上の家族写真より、子供が二人増えた。
六男・武昌(たけまさ)は、清が中支に出征中、武昌(ぶしょう)市(現在は武漢で知られる都市)駐在中に生を受けたから、武昌と命名されたと言われる。六男・秀機は、清が中支から帰還した翌年に生まれた。当時の内閣総理大臣・東条英機とは漢字が異なるが、命名に影響を与えたことは想像に難くない。
一枚目の写真に比べて、家族の衣服は戦時色が払拭されて、皆の表情も明るいことが印象的である。お正月であることもあるだろうが、やはり戦争が終わって、父も長兄も無事に復員できた野村家の本当の平和と幸福を、誰もが噛みしめているのであろう。この頃、ご近所からは、野村家の子供達(6人の男児と1人の娘)は‟七福神”と呼ばれたくらい幸せな時期だった。
清は、この時49歳。頭髪はすっかり薄くなっているが、若々しい。
夫と長男がいない間、野村家と野村医院を守ったスズと、いまだ国民服に似た衣服をまとった四男・勝彦の表情が、なんとなく険しく見えるのは気のせいだろうか。この二人は、この撮影から10年以内に相次いで早世してしまう(後述)。
二つの履歴書
一つ目の履歴書 「村医」選出時作成
一つ目は、すでに、「全科開業」記事で紹介したもの。昭和17年(1942年)9月「村医」に選出された際に、村役場に提出したものと考えられるもの(現在、山添村生涯学習センター・東豊館に保管されている)。
二つ目の履歴書 軍歴を総括したもの
もうひとつは、将校履歴調査表(第六十七兵站病院)に記されたもの。
右下に、「昭二十、十二」とあるから、用紙は敗戦から4か月目に、ラバウルの日本兵がオーストラリア軍の指揮下に置かれている期間に用意されたものであり、付随するメモの情報や、昭和21年復員まで記載されていることから、帰国後に軍医年金を申請する際に作成されたもの(あるいは、その下書き)であろう。
二つの履歴書を重ねてみると、、、
この二つの履歴書には、重複する部分がある。
ややこしいので、二つを重ね合わせてみた。黄色い文字は一つ目、青色の文字は二つ目の履歴書からの情報である。
「註」としたのは、私の解説である。
大正6年(1917年) 官立岡山医学専門学校入学
大正10年(1921年) 同卒業、 47,951号医籍登録
同年 12月1日 歩兵第38聯隊入隊
大正10年6月1日 ~ 大正10年11月30日 京都市松山外科病院に勤務
大正12年6月1日 ~ 大正14年4月30日 大阪回生病院外科に勤務
大正14年(1925年) 4月1日 除隊
同年 3月31日 三等軍医 (註:少尉相当か?)
大正14年5月1日 ~ 大正15年5月31日 済生会大阪府病院内科及小児科に勤務
大正15年(1926年)6月1日~昭和6年(1931年)7月 大阪市豊崎診療所にて全科診療
(註;「全科診療」とは、全科を診療する施設に雇用されていたことを意味するのであろう)
昭和6年(1931年)8月~昭和11年(1936年)4月 大阪市北区国分寺町にて全科開業
(註;以前のブログ記事にて紹介した「大阪の野村医院」のことです。)
昭和8年(1933年)4月~昭和13年(1938年)5月 大阪帝国大学医学部内科専攻科入学呼吸器病科専攻
昭和13年(1938年)5月14日 臨時招集 第百十六師団輜重兵(しちょうへい)百十六聯隊付
同年6月 中支に派遣され、武漢作戦や揚子江岸警備に従事
昭和14年(1939年)12月1日 軍医中尉
昭和16年(1941年)5月帰国、6月召集解除
昭和16年(1941年)9月~ 奈良県山辺郡波多野村(現在の山添村)大西にて全科開業
昭和18年(1943年)5月15日 臨時招集 中部第二十五部隊に応召、患者輸送第七十六小隊編入
同年 5月20日 宇品港出発 6月23日パラオ港上陸
7月12日 パラオ港出発 7月19日ニューブリテン島ラバウル港上陸
ラバウルにて第十患者輸送隊本部の指揮下に入る。
昭和19年(1944年)3月15日 「か」号作戦に参加し、トリウ~シナップ間に患者療養所ならびに集合所を開設した。
同年6月2日 ラバウルに帰着
(註;「か」号作戦については、最下段に追加説明)
昭和20年(1945年)4月20日 軍医大尉
6月1日 補第六十七兵站病院勤務となり、終戦を迎えた。
オーストラリア軍(戦勝国)の収容所に「勤務した」(と履歴書に書かれている)
昭和21年(1946年)5月3日ラバウル港出発 5月15日 名古屋港上陸
清の医師人生
①大正10年(22歳)~大正14年(26歳)<医学校卒業~兵役全うまで>
医師になった大正10年の、12月1日から14年4月1日までの3年5カ月間、陸軍の兵役に服している。
これは、彼の二つ目の履歴書にもあるように「一年志願兵」(履歴書写真の赤い☆印)という制度に則ったものである。
当時、徴兵令によって、満17歳より満40歳までの男子はすべて兵役に服する義務があった。陸軍兵卒は、通常3年間の現役・4年間の予備役が課せられていたが、官立学校や師範学校卒業生は、「一年志願兵」として入隊し、1年間の現役と2年間の予備役で兵役を済ませることができた。そのうえ、入隊先は自分で決めることができた。入隊は必ず12月1日と定められていた。特別の徽章をつけ雑役を免じられて営外に居住しながら部隊に通勤できるなどの特典があった。ただし、被服、装具、武器、弾薬等は部隊から現品を支給されるが、修理費として60円を前納する必要があった。騎兵は前記のほかに馬と馬具の経費としてさらに80円を納めなければならなかった。居住の費用と食費は自己負担であり、また兵役の間は無給であった。一年志願兵は、兵役の最期に試験を受け、合格したら少尉になることができた(以上、Wikipediaより)。
祖父・清が、一年志願兵として、医学専門学校を卒業した年の12月1日に奈良に駐屯する歩兵第38聯隊に入隊した理由も、合点がいく。軍医は、「騎兵扱い」だったので、彼は一年志願兵になる時点で、140円を前納したはずである。
兵役に服しながらも、除隊するまでに、京都市の松山病院や、大阪回生病院に勤務できたことも可能だったのである。除隊の前日に三等軍医(少尉)になったのも、一年志願兵の出世コースだったのである。
②大正14年(26歳)~昭和13年(40歳)<大阪で医師として成熟・開業、そして研究生活>
大正14年に除隊後、彼にとって最も華々しい医師ライフが始まった。
済生会大阪府病院内科及小児科で研鑽を積み、豊崎診療所で全科診療の雇われ院長。そして、ついに昭和6年8月(33歳)大阪府北区で自分の医院(野村医院)を全科開業した。さらに昭和8年から昭和13年まで大阪帝国大学医学部内科専攻科に入学したおそらく、学位を取得するため、開業診療の傍ら、阪大の研究室に赴き研究を開始したものと想像する。
大阪帝国大学医学部の前身(大阪府立医学校)の卒業生である父親・千太郎がこの研究先の選択に関与したかどうかは、不明である。
大阪の自宅には、玄関に飼育するネズミの檻がいくつもあったと、私は叔父達から聞かされている。
兵役を全うし、水を得た魚のように自分のしたい医療や研究に没頭していく姿が、浮かび上がる。
彼がこの当時一番やりたかったことが、これだったと思う。
当時大阪大学医学部部今村内科教室と竹尾結核研究所の指導のもと、清の研究が論文として確認できるものがある(下図)。
珪肺というヒトの呼吸器疾患の特徴をまとめたものである。
野村清には、「岡山医学士」という肩書がついている。岡山医学専門学校を卒業した医師であるという意味であり、まだ「学位を有していない」(=博士ではない)ということが分かる。
しかし、履歴書では、大阪市北区国分寺町にて全科開業は昭和11年に、たった5年間で終わったことになっている。
その理由は、父親の病気ではないかと考えられる。故郷・山添村では、父親である初代千太郎が野村医院を続けていたが、次第に病弱になっていたため、止む無く閉院し家業の医院を手伝ったのであろう。当時の開業は簡単ではなかったであろうが、現在よりも設備投資などの経費は少なくて済んだから、個人医院の開院・閉院は、比較的平易だったのかもしれない。
さらに、呼吸器病科を専攻し続けていた研究生活も昭和13年で幕を閉じている。
これの理由は、いたって明快である。昭和12年の日華事変に端を発した日中戦線拡大のため、臨時招集を受けたからである。
おそらく、彼は学位を取得できないまま、出征したのではないかと考えられる。
一番の根拠は、私の父(三代目・和男)が、私に「野村医院の医師は自分まで三代続いてきたが、誰も学位は持たなかった」と語ったことがあるから。
軍医が著した戦争中の回顧録をいくつか読んだことがある。多くは私家版であるが、日中戦争や太平洋戦争において、彼等の経験や心情が吐露されている。そんな中に、出征後、指導教官から論文が医学雑誌に掲載され喜ぶ場面などもある。清に限らず、志半ばで研究を中断せざるを得なかった人たちが多かったに違いない。
それにしても、野村家は大阪に留まらなくて良かったのかもしれない。
故郷は、京都や大阪から親戚が疎開してくる場所であった。米軍の爆撃に晒されることもなかった。
現在、オールドクリニックに多くの医療器具や資料が遺ることになった一因でもある。
出征した二人も無事に戻り、幸い野村家は誰も命を落とさずに済んだのである。
(「軍都大阪から眺めた野村家のファミリーヒストリー」も、読んでみてください)
③昭和13年(40歳)~昭和21年(48歳)<日中戦争&太平洋戦争、二回の出征>
彼の軍歴を示した二つ目の履歴書に詳しい。それを上の枠内に青色の文字で解説したので、読んでもらいたい。
彼は第二次世界大戦が終了するまでに、二回応召し、いずれも軍医として海外に出征している。
昭和13年~16年は、中支に(その間に中尉に昇進)。
一旦、帰国して除隊、野村医院の診療を始めた。父親千太郎は、彼の出征した年に亡くなっていた。
この時往診に使用したのが、ダットサンであった(ブログ参照)。
昭和17年の旧波多野村(山添村の前身)々民の投票によって「村医」に選出されたのも束の間、再び招集され昭和18年から、今度は南方戦線に派遣され、そのまま終戦を迎えている(最後に大尉に昇進)。
敗戦後は、戦勝国オーストラリア軍が設けたラバウル日本兵の収容所に「勤務」したと記載している。
敗戦から9カ月後の昭和21年5月にようやく国土を踏むことができた。
彼の中支や南方戦線での活動については、稿を改めたいと考えている。
④昭和21年(48歳)~昭和47年(74歳)<平和日本で医師として最後まで>
戦後の諸改革はも、野村家を激変させた。
野村家の小作をしていた人々に農地は解放されたので、長男・俊行は野村家の農業と林業を継承した。
一方、清は野村医院の事業を継承した。
ところで、野村家で医業を始めた千太郎の一人息子の清は、人付き合いや世渡りは上手だったのだろうか?
大地主の一人息子。医者になっても、最初は、故郷に戻ってこようとはせず、大阪で開業した。
戦後、ようやく故郷に腰を落ち着けて、暮らしたという彼の境遇である。
彼の人物像を勝手に想像してはいけないが、太平洋戦争の真っただ中でも、中支から帰還した清は運転手を雇いダットサンで村中を往診したというのに、戦後は自動車免許がなかったから徒歩で往診したという。これだけでも、何か時代に取り残されたような、朴訥とした印象を抱いてしまう。
昭和22年の幸せそうな野村家の写真とは裏腹に、四男・勝彦を丹毒で、妻・スズを多発性骨髄腫で失った。
再婚せずに余生を送った。俳句に興じたようである。
スズが亡くなると、昭和30年代には、何度か肺炎を起こすようになり、次男・和男が野村医院を早々に引き継ぐ体制が取られた。次男だった和男は、本家と診療所の隣に分家を建てた。医師の正子を伴侶としたので、昭和40年代半ばまで野村医院には三人の医師がいたことになる。
清は、共同で医院をしていた次男・和男の家で昼食を摂った。
寝起きや朝食・夕食は、野村本家(つまり、長男・俊行と同居)で過ごした。
私(和男の長男)・信介は、祖父が昼食の後、NHKテレビドラマ「おはなはん」を見ながら、じっと涙を流していた姿を今も覚えている。私には誠に優しい祖父であった。
私の周りには、清に診てもらった・怪我を縫ってもらったと、経験や思い出を語ってくれる友人や先輩諸氏がある。
現在60歳~70歳の人たちの思い出だから、昭和40年代のことであろう。
彼等の評価はまちまちである。
「優しい医師であった」という意見と、「とても怖かった」という意見が、半々なのである。
どこかに往診にいった帰途、歩いているところを産婆に呼び止められ、難産で苦しむ出産を手伝って無事に出産させたという話も遺っている。
腕は悪くなかったと思う。なにしろ「全科開業」、中国やラバウルでも腕を振るった軍医だったのだから、現代の私など、足元にも及ばない腕と経験を持っていたに違いない。
最後は病に臥し、本家で昭和47年に亡くなった(享年74歳)。私の父・和男は、肺に腫瘍が出来て胸を触っただけで「しこりが分かった」と当時中学生だった私に説明した。肺癌だと診断したようである。
子供の頃可愛がってもらっていたのに、病床に就いてしまった祖父を訪ねるのは、中学生の私には辛かった。最期を看取ることなく、私は、むしろ避けていたかもしれない。
田舎の葬儀は、当時は土葬であった。
中学三年生の私は、彼の棺を担ぐ役を仰せつかった。従弟の栄作さん(伯父俊行の長男、後に山添村村長)とともに雨天の中、大西の小高い丘にある墓地まで運んだことも、もちろん覚えている。
多くの人が葬儀に参列してくださったことも、漠然と記憶にある。
どんなに望んでも、彼から話を聞くことも、医療について相談することもできないのである。
当たり前のことだけれど、残念で仕方ない。
中学3年生の私は、父母だけでなく祖父とも話ができない、そんな思春期だったことを今も悔やんでいる。
2023年、「か」号作戦について、第38輜重聯隊の戦後の記録の中に、下記のような記述を見つけた。
祖父も、この聯隊と同様に、ツルグから撤退する友軍兵を迎える作戦に、約3か月従事したことが判明した。
最後に
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
奈良の片田舎・旧波多野村にある野村医院と野村家の古い話に、どんな感想を持ってくださいましたか?
続きを書いていきますので、どうぞお楽しみに。
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