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『やんばいのぉ』とは、山添弁で『いい天気だね』という意味です。
『やんばいのぉ山添村』は、関西弁では『ええ天気やなぁ山添村』になります!
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明治・大正時代には医師国家試験はなかった? オールドクリニックのすべて/その参

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目次

戦前には国家試験が免除された医学生がいた

「オールドクリニック」は、1897年(明治30年)年以降の様々な医療資料を展示して、当時の山村医療の現状を紹介するひとつの博物館にならんと努力しています。
このブログもその一環ですが、第三話にして、誠に申し訳ありませんが、ここには「存在しないもの」を紹介することになりました。

それは、初代・千太郎と、二代目・清の国家試験の合格証書です。

なぜなら、当時は、医学部を卒業したら、卒業証書と申請書を提出すれば、医師免許が交付されたからなのです。彼らは、今でいう医師国家試験を受ける必要はなかったのです。

初代・千太郎の場合

初代・千太郎は何度も話してきたように明治30年(1897年)に野村医院を開設しました。

我が家に遺る言い伝えでは、千太郎は、大阪府立医学校を卒業した年に、旧波多野村(現在の山添村)大西地区で開業、野村医院を始めたと言われています(彼の開業までの経緯について、今後の研究によっては訂正する可能性もあります)。

彼は(旧姓・井戸千太郎)は、旧波多野村春日地区の井戸家から、野村佐治郎の娘の婿養子として迎え入れられました。
大阪府立医学校時代の彼のノートには、まだ「井戸千太郎」あるいは「井戸仙太郎」という記載が認められます(下図)。おそらく卒業してから、結婚して野村姓になったと考えられます。

大阪府立医学校の授業ノート
オールドクリニックには、基礎~臨床医学のすべてのノートが保管されています。
内科学各論ノートの冒頭
「井戸仙太郎」と表記
病理学のノート冒頭
「井戸千太郎」と表記

大阪府立医学校は、適塾の流れを汲み、浪速の篤志家らの寄付などによって明治時代の医学教育の混乱期における不安定な運営・経営状態を乗り越え、現在の大阪大学医学部の前身となる医学校でした。

明治時代、医者になるには4つのルート

明治時代に、医学教育、資格試験制度は、目まぐるしく変更改訂が繰り返されましたが、簡単に言うと、医師になるには四つの方法がありました。

1)内務省の認める官公立の医学部(東京帝国大学医学部や全国のいくつかの有力な医学部)を卒業したら、無試験で医師免許と開業資格が授与されました。当初は認定される医学部は東京帝国大学医学部だけでしたが、明治15年以降は、岡山、千葉、愛知、京都、大阪、長崎、神戸、和歌山、広島、三重、金沢の各府県立医学校が同等の条件を備えた医学校と見なされるようになっていきました(これらの大学がその後連綿と継続したわけではない。三重医学校などは、その後廃校に追い込まれている)。

2)それ以外の医学部(戦前に、いくつもの官立・私立の医学部が誕生した)で修学した卒業生は、医術開業試験(内務省)を受験する必要がありました。合格すると医師免許・開業資格が与えられました。
多い時は年に4回も試験が実施されたようです。

この試験が1916年(大正5年)に廃止された(後述)以降は、文部省の医師試験制度に替わったものの、無試験制度との二本立てが、戦後まで続きました。
全国統一の医師国家試験が実施されるのは、昭和21年になってからです。

3)医学部で学ばなくても、独学で勉学に勤しみ医学開業試験を受けることも可能でした。医学開業試験は1875年(明治8年)から1916年(大正5年)まで実施されましたが、その間に、1)2)で医師になった者とほぼ同数の医師が誕生しています。
日本は日清・日露戦争を遂行するなか、軍医の養成も喫緊の課題でした。広がる領土の医療充実のためでもあったでしょう。

かの野口英世博士も、貧しくて大学には通えなかったので、この試験を受験して医師になりました。
しかし、学歴を問わず試験合格のみで免許が与えられる医術開業試験は、近代医学の進歩に対応できていないとの批判が高まり、1906年(明治39年)に廃止が決定され、大正5年に終了しました。

東京をはじめ全国に、この試験の予備校ともいうべき私学校がいくつもあった。有名なものは東京の済生学舎といい、女性もそこで学ぶことが出来ました。同校が輩出した医師数は1万人を超えたともいわれています。合格するまで在学することが出来たといいます。明治36年にこの試験の廃止が決定されると、同校も廃校となり、困った学生を救済する目的で、新たに 日本医学校 (後の、日本医科大学)が有志によって設立されました。

4)さらに、江戸や明治初頭から既に開業している場合、彼らや子息に医術開業試験を受けさせる計画があったが、それでは医師不足を招きかねないとして、学歴や職歴などを報告させて、医師に適格であると判定された場合に無試験で開業許可の鑑礼が与えられました。

よって、野村千太郎は、今でいう医師国家試験を受験することなく明治30年に開業資格が内務省から与えられたはずです。

医師の分類・ランキング

各地域における古い医療統計資料を見ますと、開業医を三つに分類しているものに遭遇することがあります。

 ・医師<学校卒業>
 ・医師<試験及第>
 ・医師<従来開業>

などと表記されていることが多いです。
上記の(1)が、<学校卒業>にあたり、
(2)と(3)が<試験及第>つまり医術開業試験に合格した者、
(4)が従来から開業している者ということです。

そんな資料を見たら、<学校卒業>と<試験及第>の医師の比率をみてください。
だいたい、その比率は拮抗しているはずです。前項で申し上げたように、独学で医師免許を取得した人は、免除された人の数と半々なのですから。

このように彼らは、学歴によって、歴然と分類されていたのですが、実際の医療現場においては、どの経歴で医師になっていても、医療行為に差をつけられたり制限されることはありませんでした。

いかに地域に根差した医療を展開できるかで、彼らの評判や盛衰は決まったと思います。
どんなにエリートであろうとも、医師としての才覚を発揮できるとは限りません。
昔から続く格式ある名医の系列であっても、評価は「ちゃんとした医療をしているかどうか」でしょう。

いつの時代にも、同業者と競争し負けないように努力するのが人間の性です。いったん開業したら、地域のために仕事するのが医師の務めではあり、同時に、強いライバル意識が働いていたに違いありません。

2代目・清(きよし)の場合

続く二代目・野村清は、岡山医学専門学校を1921年(大正10年)に卒業しました。
この頃、既に前述の第三・第四のルートで医師になる道はありません。
清が卒業した医学校は、後の岡山大学医学部に繋がる前進です。当初は(2)の扱いにありましたが、彼が入学する前に(1)のひとつと扱われるようになっていました(前述)。

つまり、彼も卒業するだけで試験は免除されていたわけです。

医師免許試験の代わりに、彼が熱を上げていたのは、、、

これは、今から10年も20年も前の話です。
野村の本家では、お彼岸になると、清の子供たち(私にとって伯父・叔父・叔母たち)が集い昔話に花を咲かせました。
彼らの昔話を聞くのが楽しかったことを思い出します。懐かしい思い出です。

その中で何度も話題に上がったのが、彼らの父・清の岡山での放蕩ぶりです。

清が医学部を卒業しても帰郷せずに音沙汰ないものですから、千太郎が心配して岡山まで迎えに行ったところ、芸者さんの家の二階で昼から酒を飲み惰眠をむさぼっていたというのです!

もちろん国家試験があろうがなかろうが、いつの時代にも豪傑は世の中にいますが、まじめで実直だった生前の祖父しか知らない孫の私には、国家試験を受けずに済み、青春の思い出の詰まった岡山の街を離れる前のひと時を、懇意の?芸者さんの部屋で、もう暫く過ごしたくて昼寝している祖父・清のことを、私はとても理解できるのです(どうでも良い話?)。

卒業後の清の経歴

青春時代の彼のことを、なんの資料もなく、親戚の思い出話ばかりで綴ってしまいましたが、
その後、医師になってからの彼の経歴は、2種類の履歴書を解析することによって、かなり詳細に分かりました。
そのあたりについては、「清のファミリーヒストリー 戦争と野村家、オールドクリニックのすべて、その四」をお読みください。

最後に

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

当時の医学生がどのような医学教育を受けていたのか、とても興味があります。
前述のようにオールドクリニックには、千太郎の医学部時代のノートがすべて遺されています。
いずれ、それらを解析してみるつもりです。

どうかお楽しみに。

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
令和3年秋からは、村会議員にも選んでいただきました。野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出し、また、地域の問題に少しでも取り組んでいけるよう努めております。。
若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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