波多野村役場に提出された清の履歴書
今回の資料は、実は、オールドクリニックの収蔵品ではありません。
先日偶然、山添村役場の某施設で見つかった二代院長・清(私の祖父)の履歴書です。
日付は、1942年(昭和17年)9月20日。
おそらく彼の自筆によるものと考えられます。
波多野村史(昭和37年刊)によると(p457)、野村清は、1942年(昭和17年)9月17日~1943年(昭和18年)5月17日まで、短期間でしたが、村民の選挙によって「村医」に選ばれています。おそらく選挙で当選した後に、村役場に届けた履歴書と推察されます。
村医を務めた期間がたった8ヶ月だったのは、再度応召し、今度は南方戦線に出征したからです。
「全科開業」 誇らしげな言葉!
この履歴書で、私には三つの注目点があります。
①「全科開業」という表現。
②卒業後、大阪での研修や研究活動が詳しく述べられていること。
③応召・出征~復員までの、陸軍軍医としての経歴が省略されていること。
この三点です。
写真では分かりにくいので、下の枠に、もう一度大事な部分を抜粋してみます。
1917年(大正6年) 官立岡山医学専門学校入学
1921年(大正10年) 同卒業、 医籍登録
卒後、京都や大阪の病院にて、外科、内科、小児科勤務
1926年(大正15年)6月~1931年(昭和6年)7月 大阪市豊崎診療所にて【全科診療】
1931年(昭和6年)8月~1936年(昭和11年)4月 大阪市北区国分寺町にて【全科開業】
(註;以前のブログ記事にて紹介した「大阪の野村医院」のことです。)
1933年(昭和8年)4月~1938年(昭和13年)5月 大阪帝国大学医学部内科専攻科入学呼吸器病科専攻
(註;これは、大学院のことか?)
(註;その後、応召し軍医として出征)
1941年(昭和16年)9月~ 奈良県山辺郡波多野村(現在の山添村)大西にて【全科開業】
(註;その後、1943年(昭和18年)に再び出征)
「全科診療」とか「全科開業」という言い方は、最近の医療界では、あまり使いません。
すこし奇異にも聞こえます。
私は、初代や二代・三代の祖先が、「なんでも屋」「どんな疾患も診る」そんな医師達だったと、すでにここまで何度も述べてきましたが、「全科開業」という言葉を、初めて知りました。
皆さんも、この言葉から、昨今のテレビ番組でもたはやされている「総合診療」という言葉を、思い出す人もみえるかもしれません。自分の専門とする疾患しか診ない専門医とは異なり、どんな病気でもオールマイティに病気を鑑別(患者さんの訴えや診察、色々な検査を用いて、患者さんの病気を診断すること)する「総合診療医」は、現代の医療界では一つの理想像のように描かれていて、皆さんもなんとなくイメージが湧くことでしょう。
しかし、「総合診療」と「全科開業」は、まったくレベルの異なるものです。
何度か、オールドクリニックに遺されている医療器具を紹介してきましたが、眼科や歯科、耳鼻科などの道具も用意されていました。祖父が田舎道を歩いている時、難産に困った産婆さんが、祖父を呼び止め出産を手伝ってもらったという話も残っております。「全科開業」とはそういうことなのです。
当時の医者は誰でも、開業したらそれは「全科開業」を意味したのかもしれませんが、それにしても祖父の履歴書の中の【全科開業】という文字は、祖父が誇らしい気持ちで書いたように見えるのです。
21世紀の医師には、到底真似ることが出来ないことです。
私を含め現代の医師は、より専門医に任せる方が患者さんはハッピーであろうと考えがちです。
「総合診療医」を目指す人はいるだろうけど、「全科開業」を目指す人は、おそらく存在しないのではないでしょうか?
オールドクリニックに遺されている「全科開業」の証ともいえる、諸種の医療器具の一部です(画像を押すとそのブログ記事に移動します)
今日の話は、ここまでです。
我が野村家と野村医院の古い話を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あ、そうそう、この履歴書は、今春から山添村教育委員会に嘱託で勤務を始めた従弟(野村栄作さん)が見つけて下さいました。ありがとう!栄ちゃん♫
随時アップしていきますので、また遊びに来て下さいませ。
お待ち申し上げております。
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