DATSUN SEDAN for visiting patient’s home 往診用ダットサン
A classic car, Datsun Sedan, used to be owned temporally (from 1942-1943) by the second director, Kiyoshi, for visiting patient’s home.
During the WWII, Kiyoshi was drafted twice and served as an army military physician. The first one was in China from 1938 to 1941, and the second was in Pacific Ocean from 1943 to 1945. He survived and returned safely, and worked at Our Clinic until his death in 1972.
He could not drive automobile, but between 1941 and 1943 during he stayed in Japan, he owned a car for his clinical job; Datsun Sedan.
Unfortunately, any photography of his car with our family has been found even though much my effort. They couldn’t afford to take pictures during the war. In addition, soon after Kiyoshi went to the battlefield again, the car was robbed of by fraud. It is clear that his car was Datosun Sedan.
The vehicle that this OLD CLINIC MUSEUM holds is a new collection, not the one he actually used. This car is Type 16, produced in 1937. We are grateful to Mr. Kimura and Mr. Nohsoh for their support in obtaining this collection.
二代目院長・清の往診車 ダットサン・セダン。
彼は第二次世界大戦中に二度も徴兵され、陸軍軍医として従軍しました。一度目は、1938年・昭和13年から1941年・昭和16年まで中国へ出征。二度目は、1943年・昭和18年から終戦まで南方戦線(ラバウル島)に。
無事に帰還し、1972年・昭和47年に亡くなるまで野村医院で働きました。
彼が帰国していた二年間の間に、ダットサン・セダンを買って往診に使ったと言われています。彼は運転できなかったので、運転手さんも雇用していたらしいです。
太平洋戦争が始まる前から、日産自動車は乗用車の生産を止めていましたから、清が購入したのは中古車だったようです。 残念ながら、当時のダットサンの写真は、いくら探しても見つかりません。 戦争中に車の写真を撮影する余裕は、誰にもなかったのかもしれません。そのうえ、清が二回目の応召の後、すぐに詐欺にあい奪われてしまいました。
収蔵しているこの車両は、彼が実際に乗っていたものではなく、最近手に入れたもので、ダットサン・セダン16型(1937年製)です。この車両を当館が収蔵するには、木村具幸氏と能宗孝氏にお世話になりました。ありがとうございました。
戦争中の野村家におけるダットサン、遺っている情報を元にして。
当時、よくぞ自家用自動車が山添村に来たものだと思う。
我が野村医院にこの車が来たのは、1942年・昭和17年頃(推測)。まだ、勝ち戦が続いている時期だったし、中国から帰還した一人の軍医が農山村で診療するために探せば、まだなんとか手に入ったのであろう。
その頃、我が家は、一人息子の清が兵隊にとられ昭和13年に出征したところ、父千太郎(初代院長)は嘆き悲しみ、持病の糖尿病が一気に悪化して、その年の12月1日に亡くなったという(享年69歳)。「まさに甘い尿だった」と、親戚が集まると今も話題になるくらい糖尿病が悪かったらしい。
清が中国から帰還したら父親は亡くなっており、医院は休業状態。
戦争の世界から、現実の世界に戻って、さあ仕事するぞ!往診するぞ!という気合いで買い求めたと思う。
彼のそんな気合いを感じる。
村内にはバスも通っていたが、舗装された道などなかったはず。
戦争中でも、あの太平洋戦争のさなかでも、奈良の田舎では、ダットサンに乗って村医者は人々の自宅に往診できる状況だったのだ。
当時、伊賀市の上野中学に通学していた私の父・和男(後に3代目院長)とその弟(私の叔父)は、一度だけ、寮に戻る時、ダットサンに乗せてもらって伊賀上野まで行ったという。もちろん、寮の前に車を乗りつけることなど出来なかった、かなり手前で運転手さんに降ろしてもらって二人で歩いて帰寮したと、叔父は語ってくださった。
しかし、野村家に暗雲が再び。思いもよらぬ二回目の応召。
さすがの清も参ったに違いない。
遺された家族は、もっと困ったことであろう。
祖母(清の妻)すずは、銃後を守り、清を助けて医院の事務や看護師のように働いたともいう。清が昭和16年に中国から帰国した翌年には7番目の子供(私の一番若い叔父)が生まれて、子育ても大変、え、そうしたら、夫がまた出征?! いや、大変どころの話じゃない、、、ひどい!
祖母すずは、生活のために、誰も乗ることがなくなったダットサンを売ると決心し、日頃医院に出入りしている大阪の薬屋の卸さんに、車を売って来てくれと頼んだらしい。信用できる若者だったという。ところが、よくある話で、待てど暮らせど、その若者は戻ってこなかった。詐欺にあって車は奪われてしまったのである。
この 1937年型ダットサン・16型セダン がオールドクリニックに来るまでの物語
私は車のことは詳しくないので、カタログ情報などをたよりに、二代院長・清が、短期間だが往診車にしたであろうダットサンの性能を記しておきます。
また、当時のカタログを提示ます。
寸法; 全長 3,129㎜(パンパーを含む)、 全幅 1,190㎜、 全高 1,600㎜、
ホイルベース 2,005㎜、 最低地上高 175㎜。
車両重量; 630㎏
乗車定員; 4名
最高速度; 80km/時間
エンジン; 型式 水冷直立4気筒、 内径x行程 55㎜x55㎜
総排気量 722㏄、 出力 16PS/3600rPm
トランスミッション; 前進3段、後退1段
定価; 2100円(発売当時)
生産台数; 昭和12年に2612台
ひとつだけ、木村氏に教えてもらったことを書いておこう。
バンパーを含めて全長3,129㎜。バンパーを外すと3m以下になるらしい。
当時、全長が3mに満たない車は、運転免許証が不要だったらしいから、そのつもりで設計されたのだとのこと。
そういうこともあって、『ダットサンは、免許が要らない車だ!』=『低級車だ!』という輩があるらしいが、
それには当たらない!
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この数年、伯父・叔父・叔母が集まる彼岸などに、古い野村医院の話をいろいろと聞き出す努力をしてきた私である。彼らからダットサンがどんな様子だったのか知りたいが、この車のことを、実際にはあまり皆さん、詳しく覚えていないのです。ご近所さんの年配者も「ダットサンだった」とか「黒色だった」とか言ってくれるのですが、その程度の情報でしかありません。しかし、ダットサンと言えばまずは、このセダンタイプですし、当時ドクターカーという「あだ名」さえあったように、開業医の車と言えば、ダットサン・セダンだったらしいです。
ですので、質の良いダットサン・セダンを探しました。日本中を探して、ようやく、福山自動車博物の能宗さんと木村さん(前述)に巡り合うことが出来たのです。
お二人と話しあい、そして、木村さんの工房ガレージを訪問した後は、とんとん拍子に話がまとまり、有難いことにエンジンのかかりそうなセダンが見つかりました。
木村さんの工房・ガレージには、戦前ダットサンのエンジンやら各種のパーツがたくさん揃えられており、愛情もってダットサンの再生に取り組んでいらっしゃいます。
木村さんは、私が計画していた「曽祖父が始めた古い診療所の建物を利用して、農村で100年以上続くことになった、当時の医療現場を再現する博物館構想」に賛同して、二代目院長が往診車に使っていたダットサンを再生することに力を貸すと約束してくださいました。
そんな経過で、2019年・令和元年のクリスマスに、このダットサンは木村さんに連れられてオールドクリニックにやってきました。時速30km程度で走ります。ワイパーも動くしライトも点きます。
戦後の乗り合いバスにも備えられていた方向指示器(アポロ社製)も、ちゃんと機能します。
木村さんは、最上の状態に再生してくださったのでした。
詐欺にあって奪われてから、ほぼ75年ぶりにこの地にダットサンが戻ってきたということになります。
ですので、再度野村医院にやってきたダットサンは、大事にしなければなりません。
山添村に来てからは、ダットサンは、進藤洋希さんの1-Styleに全面的にお世話になっています。
ぜひ、みなさん、当時の車や古い医療器具、そして古い診療所そのものを見に来てください。
お待ちしております。
♣一番下に、初代・千太郎の往診馬も紹介しております。