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やまぞえ絆リレー2020
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やんばいのぉ山添村
ええ天気やなぁ山添村
『やんばいのぉ』とは、山添弁で『いい天気だね』という意味です。
『やんばいのぉ山添村』は、関西弁では『ええ天気やなぁ山添村』になります!
『やまぞえ絆リレー2020』2021年5月9日に延期となりました。

100年前の種痘道具一式 オールドクリニックの収蔵品⑯

目次

Smallpox vaccination equipment 種痘道具 1890~1920?

An old set of the lancets and the smallpox vaccine in the late 19th century or the early 20th century.
The smallpox vaccine was performed by putting the vaccine on the tip of the lancet, pressing it against the skin as it is, making a small wound and inserting it into the human body. Until the mid-1940s, this type of lancet (diamond head) was used in Japan, and in the majority of cases it was given to the right shoulder of children.

Until the late 19th century, how to store vaccines and maintain its pharmacological effective longer was a very important issue. Primarily, vaccination was performed either directly with vaccine produced on the skin of calves or, with vaccine obtained from the calf but then maintained by arm-to-arm transfer. Even Dr. Siebold failed twice to obtain the effective vaccine from Batavia to Nagasaki.

Until the period when our clinic was established (around 1900s), the vaccine had been able to be dried in glass capillary tubes for short-term (around 2 months?) storage and transport. The set presenting here includes an old type lancets (diamond head) and such glass capillary tubes wrapped in paper which were made by Osaka Institute of Bacteriological Research. (see my blog of anti-erysipelas serum therapy).

Lancet length 9.0cm Circa, around 1920?

種痘の道具セット(1800年代後半∼1900年代前半)
天然痘のワクチン接種(種痘)は、乱切刀(ランセット)を用いて皮膚を切り、そこに直接入れ込む方法が取られていました。我が国では慣習的に、この写真に示すような両刃の鋭い乱切刃で、小児の右肩に植えこむ方法が1940年代まで行われました。 

19世紀の後半まで、痘苗をいかに保管し長く持たせるかがとても重要な問題でした。多くの場合、ワクチンを牛のかさぶたから直接作るか、それとも接種した子供の腕から次の子供の腕へと繋いでいくやりかたが取られました(次々の摂取する子供を確保しなければなりません。江戸時代後半に、京都から若狭までワクチンを運ぶために、ある医師は子供とその親を10人以上募集して集めて、皆で苦労して冬の越後路を越えたと言います。また、かのシーボルトでさえ、バタビアから有効な痘苗を取り寄せるのに二回も失敗したと言われています。

私達の野村医院が出来た頃(1900年前後)になると、ワクチンは細いガラス管に詰めて運べるようになっていました(おそらくこの方法で2カ月間くらい保管できるように技術は発展していたと考えられます。後述)。ここに示すセットは、そのような乱切刀と、包装紙に包まれた大阪細菌研究所のガラス管(丹毒血清療法の項でも登場しました)です。

年代 器具は1890年?(下記・追記に示したように、さらに古い器具が見つかったので、このセットは、もう少し新しいものかもしれません) 痘苗は1920年頃か?  乱切刀の長さ 約9㎝

1700年代末にジェンナーが開発した種痘の技術は、それから100年経った、オールドクリニックの時代にも、技術的にはあまり変わっていません。乱切刀で皮膚を切って植え付けるような方法です。今から考えたら、かなり乱暴な方法です。それが、私達が子供の頃まで、ずっと続きます。
結局、人類が、二世紀近くの間、この方法で世界中の多くの人々に接種を繰り返し、ようやく撲滅することが出来たのです(WHOの天然痘撲滅宣言は1980年)。

丹毒血清の記事にも登場した大阪細菌研究所製の痘苗です。
この中にガラス管が入っていると思いますが、筆者はまだ開けていません。
このガラス板の丸い凹部分で、痘苗をまぶして、乱切刀の先に着ける(のでしょう、やったことがないから想像です)。

野村医院オールドクリニックでの種痘

江戸の後半から蘭方医は熱にうなされたかの如く、種痘の普及に邁進奔走しましたが、明治以降もその流れと勢いは衰えませんでした。多くの困難を乗り越え次第に種痘は全国津々浦々にまで広がっていきました。
さらに、1909年(明治42年)我が国は より種痘の推進するために 「種痘法」を制定し、 定期種痘および臨時種痘の実施、市町村の定期種痘の実施義務、種痘を受けるべき者の保護者の義務、医師の種痘証、痘瘡経過証、違反者に対する罰則などを決めました。蛇足ですが、こういう公衆衛生面での法整備は、不平等条約の解消にも必要な国の基本を成すための重要な国策の一つだったと私は考えます(日本の関税自主権が復権するのは1911年)。

当時の開業医にとって、種痘はひとつの「稼ぎ頭」的存在だったと言います。
『種痘は毎日いつでも受け付けます!』と看板を出している医者も多くあったと言います。
保険、国や市町村の補助も完備されていない時代に、たとえ「種痘法」が制定されたと言っても、経済的に困難な人たちも多かったことは想像に難くありません。

野村医院では、いったい何人くらいの人たちに種痘を実施したのでしょうか?
残念ながら、記録が遺されていませんので分かりませんが、法律の下で多くの子供達が受けるようになるまで、野村医院にとっても、大事な”収入源”だったと考えられます。あるいは、市町村からの依頼で、子供達に種痘を実施していた可能性もあります。

痘苗の包装紙に記されている、この「九・四・二六」という数字は、おそらく「大正9年4月26日」(1920年)だと思うのですが、いかがでしょうか? 木箱に入った乱切刀やガラス板などの種痘道具は、もう少し古い時代のものでしょうが、痘苗は、この包装紙にも書かれているように「二か月」程度しか保存ができなかったようですので、随時新しいものを取り寄せていたものと推測されます。

ワクチンの語源 

1796年、ジェンナー Dr Edward Jennerは、牛痘に罹患している牡牛のかさぶたから痘苗を得て、それを接種する方法を見出しました。その技術や知見が、瞬く間に世界中に広がっていきました。我が国には、船か陸路で痘苗を運ぶ方法しかなかったので、ずいぶんと時間を要しました。上述のように、痘苗は、長期間保存できないのです。
さらに国内においても、なかなか一般の人々に広く受け入れられるまで、さまざまな困難がありました。このあたりの詳細は、医学史のなかでも、一番面白いところですが、今回のテーマではないので割愛します。

♣さて、ワクチンの語源について。
ジェンナーは、最初天然痘のワクチンのことを自らvaccineと呼んでいました。なぜなら、ラテン語で牡牛のことをvacca、牛痘をvacciniaと言うからです。ご存知のように、牛から種痘法を確立したのです。
しかし、百年後の1881年、有名なフランスの細菌学者パスツールLouis Pasteurは、ジェンナーの功績を記念してvaccineとvaccinationという言葉を予防接種全体に拡張することを提案し、それが広く受け入れられるようになりました。今日私達が、インフルエンザや肺炎球菌、子宮頸がんなど、すべての予防接種をワクチンと呼んでいるのはそのためです。

追記)ブログ投稿後に、もうひとつの種痘器具発見! 2020/08/25

倉庫の中を整理していましたら、もう一つ種痘道具が出てきました(令和2年8月25日)。
ここに画像だけアップします。
乱切刀は、鼈甲で出来ていますし、折りたたみ式です。
その傷み具合から相当に使い込んでいることが分かりますし、木箱の性状から、上記のセットよりも、さらに古いものだと考えられます。
◆おそらく、これが初代・千太郎が開院以来から使用していたもの、あるいは、当時のことだから、先輩医師か知り合いから譲り受けたもの、そんなことを考えたり推測したりしています。

♥ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

野村 信介のアバター 野村 信介 山添村 野村医院長

60歳を過ぎて、山添村で野村医院を継承した開業医です。長年、三重県で勤務医をして過ごしましたが、年齢とともに、郷愁の念断ちがたくなり戻ってきました。
野村医院での診療の傍ら、村興しにも精を出しております。若い頃にはなかなか気づかなかった山添村の素晴らしさを、このサイトで皆さんに発信していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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