オールドクリニック倉庫の木箱から、たくさん写真を発見
古い写真も、オールドクリニックには、たくさん遺されています。
歴代院長と家族、さらには、友人・知人たちとの写真に交じって、眼を惹くのは、患者さんの病状を記録するために撮影された写真です。
その多くは鶏卵写真ですから、初代院長・千太郎の時代に撮られたものに違いありません。
鶏卵写真はコントラストをつけやすいために、一世を風靡しました。煩雑で大量の印刷が出来ないために、新しい技術と共に明治後半には廃れていきました。
今日我々が目にすることができる鶏卵写真は、厚手の紙に焼き付けられ、撮影した写真館の名前が枠に洒落たデザインで施され、画像には独特のセピア調の味わいがあるので、今でもたくさんの愛好家が存在します。
当時は、写真自体がまだ貴重なものですから、裏面に、持ち主が撮影日や被写体の説明を記載しているものがよくあります。これによって、後世の私達にも、いつ撮影したものなのか、誰が写っているのか、明確に伝わります。
現在でも、医師は、カルテに患者さんの病状や治療の内容を診察の度に記入します。カルテには、傷や発疹などをスケッチすることもありますが、時には写真撮影し、より克明に記録します。スマホ時代になってからは頻繁に写真を撮っています。
明治時代の彼らも、そうだったのです。おそらく、近くの写真館の店主に撮ってもらっているのですから、たいそうなことであったことでしょう。
明治29年、陸軍病院での手術患者さんの写真
こういう病気や怪我の写真が苦手な人はお許しください。二枚目からご覧ください。
写真のサイズ:縦16.4㎝、横10.8㎝
裏面の説明文を、要約します。
陸軍第四師団臨時予備馬厩附の人夫〇〇さん(36歳)は、明治29年3月14日に城南練兵場において、馬に餌をあげている時、下唇を完全に食いちぎられた。そのため、4月1日に、大阪陸軍予備病院にて、形成外科手術を実施したところ、感染などを起こさず傷は癒合した。手術は、医学士・陸軍一等軍医村田豊作と、陸軍省お雇い医師井戸千太郎であった。
(註:予備病院とか予備馬厩とは、前年に終結した日清戦争のために拡充した軍備に対する呼称と推測します)
撮影は、大阪淀屋橋南詰の葛城思風
(註:この界隈では、有名な写真館だったようです)
この写真から判明したこと、新たな研究テーマ
この写真の説明から、一番驚くことは、
①明治29年春の時点で、すでに井戸千太郎(野村千太郎、初代院長)は、「陸軍省お雇い医師」と記載されていることです。
私達は、彼が明治30年に医師になり、即野村医院を開業したと考えていました(と、叔父たちから聞かされてきたからです)。
千太郎が、明治何年に医師になったか、調べなおす必要があります。大阪府立医学校卒業生は国家試験が免除されていたから、「卒業=医師」を意味していました(別のブログ「明治・大正時代には医師国家試験はなかった」を参照)。そして、卒業後、野村医院を開業するまでの足取りが、新たな研究課題となってきました。
②千太郎の恩師・村田豊作は、第四師団附の軍医でありながら大阪府立医学校の内科学教諭であったことは、先のブログで示しましたが、その恩師とともに、陸軍の病院にて千太郎は手術を担当していることも驚きです。
豊作の家族による伝記では、豊作は明治28年(日清戦争二年目)12月まで出征しているはずなので、復員後、ふたたび第四師団附に戻ってきたのでしょう。
千太郎は、豊作に可愛がられていたのかもしれません。今後、遺されている手紙や諸種の記録を、注意深く調べていくことにします。
③村田豊作は、陸軍一等軍医とありますが、これは誤記の可能性が高いように思います? 豊作は、明治22年に東京帝国大学医学部を卒業し三等軍医(少尉相当)になっています。この任官はおそらく通例に反さないものでしょう。それから7年後、たとえ日清戦争で功を挙げたとしても、すぐに一等軍医にはなれそうにないからです。
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今日の話は、ここまでです。
我が野村家と野村医院&オールドクリニックの古い話を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今後も、随時アップしていきますので、また遊びに来て下さいませ。
お待ち申し上げております。
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