2種類のキニーネ
Old medicine jars of Quinine hydrochloride (Left) & Quinine Ethylcarbonate (Right).
The label were both written in German and Japanese. Note; Chininum is the term means Quinine in German.
These are medicine probably imported around 1900.
Quinine Hydrochloride has been the most important agent for the treatment of Malaria, for long long time, since 17th century to today.
Very effective as antimalaria as well as antipyretic, but so bitter that many attempt used to be performed to make it mild in taste for long time.
Quine Ethylcarbonate was one of the result of such effort, and used to be prescribed as an antipyretic rather than antimalaria.
塩酸キニーネ(左)とエチル炭酸キニーネ(右)の薬品瓶。
ラベルは、ドイツ語と日本語で表示。Chininumは、ドイツ語のキニーネ。
塩酸キニーネは、17世紀にその効果が見出されて以来、今日においても、マラリアの特効薬です。
抗マラリア剤としても解熱剤としても有効なものでしたが、とても苦いので、少しで服用しやすくなるよう工夫が繰り返され、その結果、エチル炭酸キニーネなどの苦みが少ない薬が生まれました。これらは、マラリアへの効果は、残念ながらあまり強くなく、解熱剤として利用されました。
キニーネの歴史・語源、 ついでにマラリアの語源
キニーネは、アンデスに生えるキナChinchonaという樹木の樹皮から得られる貴重なお薬でした。
嘘か誠か、その昔、インディオ達の水源地である池にキナの樹が倒れてしまった結果、水が苦くて呑めなくなってしまいました。しかし、マラリアに罹患していたある男は、苦し紛れにその苦い水を呑んだところ、病気が治ってしまったというのです。
それ以来、キナに含まれるマラリアに効果があり熱を下げる作用を有する物質を同定・合成することに、人類は血眼になりました(世界中で競争です)。あるいは、キナを自国に持ち帰り国を挙げて栽培に取り組む努力もなされました(London Kew Gardenに行ってみよう!)(マラリア流行地である東南アジアやアフリカに植民地を有する欧州の国々では、最重要課題のひとつでした)。
1820年、フランス人薬学者、P.J.PelletierとJ.Caventouがキナからマラリアに有効な単一の物質の抽出に成功しました。一躍ヒーローになったことは言うまでもありません。彼らは、キナから得た物質だから、「Quinine(キニーネ)」と名付けたのです。
しかし、合成Quinineが安定して人々に供給されるようになるのは、20世紀後半まで待たなければなりませんでした。ベトナム戦争では、マラリア対策に乗り出したアメリカ軍の需要が高まり、世界中で品薄となったくらいです。
第二次世界大戦中に東南アジア、インド、西太平洋へと戦線を拡大した日本軍もマラリアには相当苦しめられていました。日本は台湾を併合した後、キナの栽培を盛んに拡大し、大正時代になると国内での需要を賄えるようになっていました。おそらく太平洋戦争中は自国産キニーネで南方での戦争を遂行したと考えられます。
マラリアMalariaの語源 = 悪いMal + 空気Air
マラリアが蚊が媒介する感染症であることを、当時の人は誰も知りませんでした。
マラリアの流行している国には、「悪い空気」が蔓延っていて、そのためにこの病気になると信じられていました。
だから、ラテン語で「悪い」を意味する接頭語MALと、イタリア語の空気AIRAを、組み合わせてMalariaマラリアと呼ばれるようになったと言われれています。
この語源を知るまで、私は「Maralia」と書き間違えてばかりいました(丸憶えしようとする馬鹿ですね)。
やはり、語源を勉強するって、大切です。
蛇足中の蛇足ですが、スペイン語の「良い」Buenoと「Air」を組み合わせたのが、Buenosairesブエノスアイレスです。スペインの某将軍がその街を侵略したとき、とても晴れていたから、街にこのような名前を付けたらしいです。
野村医院とキニーネ
野村医院OLD CLINICに遺るこれらのキニーネは、瓶のガラスやラベルのドイツ語などから推測すると、やはり、初代・千太郎の時代のものと考えますが、いかがでしょうか?
日本は、明治期にはキニーネを輸入に頼ることしか出来ませんでした。千太郎が手に入れたキニーネは、いったいどんな患者さんに処方されたのでしょうか。山添村にたくさんマラリアの患者さんがいたとは考えにくいので、エチル炭酸キニーネだけでなく、塩酸キニーネも解熱剤として用いていたのでしょうか。
二代・清は、陸軍々医としてラバウルに出征しましたが、無事に帰国しました。
南方戦線にいる間に彼がマラリアに罹患したかどうかは、分かりません。
ラバウルから帰還した軍医が戦後に著した本は、私が知るだけでも4冊あります。彼らは、例外なくマラリアに苦しんだ兵士のことを述懐しています。 軍から支給されたキニーネはラバウルにはどれくらいあったのでしょうか? ラバウルは兵隊が陸海軍合わせて10万人いて、あらゆるものを自給自足していたと言いますから、キナの樹を栽培したりキニーネを現地で生産していたかもしれません。だって、お酒も醸造していたくらいだから、それくらいの実力があの島にあったはずです。
戦争末期の我が日本軍のキニーネはどれくらいの「質」を保っていたのでしょうか?
もし、帰還した清が現地でマラリアに罹患していたら、帰国後、薬品戸棚のこの塩酸キニーネを見つけ、みずから服用したかもしれません。 山添村に帰還後マラリアに苦しんだ同胞の帰還兵がいたら、きっと処方したに違いありません。
*誰も知らないことであり、すべてが推測です。
また別の機会に、祖父(第二代院長)清の戦争のこと、ラバウルのこと、水木しげるのことなどを書いていきたいと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。