明治時代後半の山村の医療事情
今回は、オールドクリニックが建てられた明治30年から戦前までの医療事情の側面を、ひとつの資料から考察してみます。
「波多野村史」の記述から
「波多野村史」(1962年・昭和37年刊)に興味深い記述があります。
明治・大正時代から戦前にかけて、旧波多野地村だけでも6人の開業医が存在していたというのです。
旧波多野村は、昭和31年に旧豊原村と旧東山村(の一部)が合併して山添村となりました。
今回紹介する「波多野村史」は、その合併から6年後に、村内外の有識者たちによって編纂された1,080ページにも及ぶ大著です。その内容は多岐にわたり旧波多野村について詳述されていて、私もしばしば開いては楽しく読んでいます。
さて、歴史・近代の保健衛生の項(P456)に【医療機関】についてこのように書かれているので、引用してみます。
医療機関 村内の開業医は早くから充実しており、これらの医師は、いづれも乗馬で往診するを常としていたので、近隣に例を見ない医療に恵まれた村であった。重症の場合は主として、上野、名張および、その周辺から来診をこうものが多く、入院する場合は、昭和初期までは、岡波病院(上野町岡波、後上野市)への入院が断然多かった。自動車の便がなかった昭和初期までは、入院といえば実に大変な事で、親戚縁者が、急造の担架に病人を乗せて、ふとんや諸道具、弁当持参でぞろぞろと行列を作って出かけたものである。
〈波多野村内開業医〉
久保田医院*(片平) 江戸時代に開業、大正十三年閉鎖
野村医院(大西) 明治三十年開業、以後医業継続
井岡医院(菅生) 明治三十五年開業、昭和十三年閉鎖
浜田医院*(葛尾) 江戸時代に開業、同三十九年閉鎖
中森医院(広代) 大正元年開業、戦後閉鎖
今本医院(遅瀬) 明治四十四年開業、戦後閉鎖 (一部改変)
他に歯科医、鍼灸院、漢方医も紹介されていますが、ここでは省略しました。*江戸時代から開業していた久保田医院と浜田医院は、この文脈から、当初は漢方医だったであろうと判読されます。中森医院と今本医院は戦後に閉院されています。
この記述を分かり易くグラフにすると下図のようになります。
明治30年創設の野村医院は、村内三つ目の開業医
オールドクリニックは築後120余年、今でこそ、その古さ(?)を誇っていますが、野村千太郎が開業した明治30年、野村医院は村内三つ目の新規開業医だったことになります。
その後入れ替わりがありますが、太平洋戦争が始まる頃、なんと四つもあったはずです。
「そんなにたくさんの医院があった旧波多野村って、どんなところ?」って疑問に思っちゃいますよね♪
そこで、地図を広げてみましょう。
Google Mapが赤線で囲んだ現在の山添村の地図に、旧波多野村が分かり易いように黒線で囲ってみました。
旧波多野村は南北約5.5Km、東西約6.5Kmの楕円形をしており、面積約24.8㎢の中規模な山村でした。
ある意味では、平凡な全国どこにでもある農村でした。
明治期から戦前まで人口は、概ね3500~4000人程度でしたので、人口千人強に一つの診療所が存在していたということになります。この比率は、現在の一般診療所数と遜色ありません。厚労省が発表している平成30年度の全国の診療所数は約十万ですから、やはり人口千人当たり一つ程度なのです。
旧・波多野村が特別だったのか?
昔は人々が動けないから、Essential Jobは各地域に必要だった。
コロナ禍の最中に、「Essential Workersは自粛要請を受けない、休業要請などありえない」などと言われた職業がありましたね。お百姓さんや公共交通機関従事者、医療従事者など。地域(コミュニティ)の維持や人々の生活に、なくてはならない職業と理解しています。
どの仕事がEssential Jobなのかは、時代や地域によって異なると思います。
明治時代~戦前は、交通事情が悪く、人々の行動範囲は制限されていたので、小さな集落や山村がコミュニティとして機能するためには、Essential Jobがそれなりに備わっていたのです。開業医も産婆も桶屋も魚屋も酒屋も鍛冶屋も、現在では考えられな小さな村という単位に存在し得た(せざるを得なかった)のでしょう。
だから、旧波多野村にこれだけの開業医がいても、共倒れすることなかった。当時は保険制度も充実していない時代ですから、需要と供給のバランスが成立しないと、医療施設は現在よりも廃業の憂き目にあったはずです。ここまで見てきたように、少なくとも戦前まで、13の大字・三千数百人で構成される旧波多野村には、三~四軒の開業医があって然るべき(必要な)状況だったと考えます。
旧波多野村は「近隣に例を見ない医療に恵まれた村」だったのか?
前章で引用した村史の『(波多野村が)近隣に例を見ない医療に恵まれた村であった』という記述については、検討する必要があります。
波多野村史は、冒頭で申し上げたように、旧波多野村が昭和31年旧豊原村や旧東山村と合併し山添村になった五年後に発刊されたものであることから、「近隣」とはこの旧二村と比較しての記述なのかもしれません。旧波多野村と合併した二つの村の医療事情は、今後機会を設けて検証していきますが、私は人々の行動範囲が制限されていた時代には、文明と経済が発達した我が国では、多少の差はあれど、全国津々浦々まで、それぞれに地域で開業医は確保されていたと考えています。
誤ったイメージの払しょくを
『江戸時代や明治時代の農村には、医者はおらず村人はまともな医療を受けることができずに不健康な生活を送っていた、、、』というのが、多くの人が抱く「イメージ」ではないでしょうか?
本当でしょうか?
ここまで波多野村の明治30年~戦前の医療事情を読んでもらえば、これはこの地域が特別なものではなく、全国で一般的な状態だったことが、すでにご理解いただけたと思います。
医療レベルは時代と共に発展しているので比較出来ませんが、当時必要な医療を、お金があれば、そして望めば多くの人が受けられる環境にあったと私は捉えています。
蛇足ですが、江戸時代後半でさえも、波多野村史によれば、少なくとも二人の開業医がいたのです。
山村の、いえ、地域に根差した開業医はオールマイティ
いずれ別の機会に野村医院でどのような医療がなされていたのか検証していきますが、内科・外科・皮膚科・泌尿器科・歯科・眼科・耳鼻科などオールマイティだったようです。オールドクリニックに今も遺されている様々な医療器具がそれを物語っています。
オールドクリニックのこれらの展示品をご覧になった人たちは、ありとあらゆる医用器具がかつてひとつの診療所で使われていたことに驚かれますが、それが医者の「普通のスタイル」だったのでしょう。
我が国では古くから、眼科や産婦人科に特化した医家がありますが、そのような例外を除き、明治~戦前まですくなくとも旧波多野村を含め、全国どこの農村も漁村においても、地域に根差した開業医ならばオールマイティでなければならなかったのです。
「全科開業」という言葉が、ありふれていた!
下の写真をみてください。
第2代院長(野村清)が、昭和17年に旧波多野村(現・山添村)役場に提出した履歴書です。
この中に、「全科開業」という言葉が、3回も出てきます。
これ即ちオールマイティという意味だと、考えられます。
詳しくは、「全科開業・2代目清の履歴書」をお読みください。
蛇足)無医村が問題は解決したのか?
無医村問題が表面化したのは戦後!
このような視点で考えてみると、過疎化は人々が自由にかつ広範囲に移動できるが故に発生した現象なのかもしれません。故郷というべき場所はさておき、快適に過ごせる場所、楽しい場所、より収入の見込める場所に移動するのは必然のことなのかもしれません。
戦後の核家族化や高度成長期がそれを加速しました。田舎に留まった人たちでさえ、自動車が便利になったことで、兼業農家となり都会に日帰りで仕事を得るようになったからです。
医師を職とした人間の大部分も、同じ理由で、都会を目指すことになります。そのうえ、医療と医学が発展すると、医師も自分が得意とする分野のみを標榜することになります。つまり、「私は内科しか診ない」とか「私はこういう病気は苦手ですので来院しないでください」と公言して憚らないのです。オールマイティな医療知識や技術の習得と維持は、なにか一つの分野の専門医であることよりも、ずっとハードルが高いのです。
よって、なにかの専門医であればあるほど、山村で医療することが厳しくなっていきます。
(そのうえ、専門医の方が格好良くみえる、なんでも屋の医師は、なぜか格好悪いです、、、これは私のボヤキです)
それが、無医村現象を引き起こしていきました。
戦後、それも高度成長期を迎えつつあった頃、無医村が全国で問題となりました。田舎には医者が以前からいなかったと誤解している人が多いけど、旧波多野村だけでなく全国津々浦々まで開業医はその昔存在したのです。気がついたら我が村の医者がいなくなっていたのです。
そこで、医師のいない村々、だけでなく、市町村は医師の給料を上げたり、様々な工夫をしましたがなかなかうまくいきません。ついには、自治体が自治医科大学まで創ったのですが、それでも無医村問題は今も解消していないのではないでしょうか。
医療や医師の偏在問題は、医師を職とする人間の「興味」が変化しないとそう簡単には解決しない問題だと思っています。