丹毒血清 昭和2年製造
Two wooden containers for anti-erysipelas serum, serum therapy for critical skin bacterial infection.
Medicine produced in May 12th of 1927, by Osaka Institute of Bacteriological Research.
Large 10.5 cm, Product #67 can be also seen. Small 9.0cm height
The patient name and the administration date were clearly recorded.
The serum therapy was frequently used for various bacterial infections in the absence of antibiotics.
Dr. Von Behring was the first to advocate this treatment for diphtheria and was awarded the Nobel Prize.
大阪細菌研究所が製造した「丹毒血清」の木製容器。
大 10.5㎝高、 小 9.0cm高
製造は、1927年(昭和2年)5月12日。 製造番号67の表示も見えます。
野村医院において、昭和2年7月10?日、患者さん(中〇久〇君)に投与されたことも記載されています。
丹毒は、当時、致死率の高い皮膚の感染症(主に顔にできやすい)でした。
抗生物質がない時代、北里柴三郎とベーリングが提唱した血清療法は、医学界の最先端医療で、ご存知のように、1901年(明治34年)第一回医学生理学ノーベル賞を、ベーリングは受賞しています(北里柴三郎がどうして受賞できなかったのか、いろいろ憶測はありますが、本稿では割愛)。
今日ならば、医師は迷わず抗生物質で治療する疾病の一つです。
抗生物質がない時代、連鎖球菌に対する抗血清治療は、医師も患者も家族も祈るような気持ちで治療が行われたことでしょう。
木製の箱に入れられていた丹毒血清は、おそらく相当に高価なものだったに違いありません。
しかし、丹毒の起炎菌である溶血性連鎖球菌は多様性に富むため、どの丹毒にも広く効果を有する抗血清を作ることは難しかったと考えられます。
この薬剤が投与された昭和2年(今から90年以上昔)は、奇しくも、三代院長になる和男が生まれた年です。
二代院長・清は大正時代末に医師になっていましたが、まだ在村していないので、初代院長・千太郎の処方になるものでしょう。
中〇久〇氏の経過はどうだったのでしょうか? 私も知る友人のご家族です。
この抗血清が功を奏して患者さんが回復に向かったことを祈って止みません。
野村家における感染症の爪痕
二代目・清の四男(克彦)は、戦後の混乱期に、靴ズレから敗血症を起こして亡くなりました。
清が、運動好きの息子のために買った新しい運動靴が原因だったと言われています。
おそらく、蜂窩織炎だったと考えられます。
当時の、清と、医学生だった次男・和男(私の父)や三男(雅一)との手紙のやり取りなどをみると、抗生物質がない時代に、一生懸命治療する医師や家族の緊張感が伝わってきます。
今日の抗血清療法
抗生物質がこれほど進歩した21世紀、令和の時代においても、まだ、一部の疾病に血清療法は行われています。
たとえば、ガス壊疽や破傷風、ジフテリア、それに、誰もが思い浮かべるのが、マムシ咬傷ではないでしょうか?
マムシに咬まれたら、「血清打ってもらおう!」「血清はないぞ!」という言葉が、医療関係者でない人々の口からも発せられますから、相当広く認識されている治療法です(その有効性については、議論のあるところですが)。
これらは、細菌の菌体や毒素などを、馬に投与し(注射)、馬が抵抗力として獲得した免疫グロブリンを、後にウマの血清(血漿)から精製したものを「抗血清」と呼び、治療薬として用いられています。
詳しくは、この総説が読みやすいかもしれないので紹介します。
語源コラム 丹毒 erysipelasとは?
医学生時代、丹毒erysipelasを覚えるのは一苦労だった。
しかし、丹毒の患者さんを受け持ってみると、語源がようやく理解できた。
丹毒は、皮膚が見事に赤くなる病気なのです(下図参照)。
赤いerythros + 皮膚pelas というラテン語を組み合わせた医学用語です。