悪代官(川上代官の前任)と争った藤田喜七郎
山添村ガリ版物語の主人公は、ガリ版を発明した堀井耕造。
彼の祖先は、第3話でお話ししたように、江戸時代末期 (おそらく弘化2年、1845年頃) に、山添村に代官として赴任した川上直衛門。川上氏は、悪名高い前任の井ノ上代官とは打って変わり、領民にとても人気があったと言われている。
今日の物語・外伝その弐は、川上直衛門が山添村に赴任することに、間接的に関わった藤田喜七郎の物語である。
悪代官・井ノ上氏は、藤田喜七郎の男気ある行動(騒動)が原因で江戸に戻ることになり、その結果、後世村人に慕われる新代官・川上氏がやってくるのだ。
そう、言葉を換えれば、「川上直衛門を呼び寄せた男」と言っても良いかもしれない。
外伝その壱と同様、まずは、山添村教育委員会発行「村の語りべ」から引用させていただきます。
喜七郎騒動 -上津― (「村の語りべ」より引用)
江戸時代の中ごろから終わりにかけて、奥田の殿様の下で、地頭・井ノ上代官と対決した藤田喜七郎の物語です。
当時はどこの村も、年貢の取り立てがきびしく、山年貢、柿年貢と、柿にまで年貢を掛けられ、これがほとんど井ノ上代官の懐に入っていたといい、年貢が払えない百姓は、遂に江戸奉公に出た者もあったのでした。
藤田喜七郎は庄屋でもあり、みずからを犠牲にしても、“村人のために・・・”と直訴(殿様にじかにお願いすること)を考えていました。
ある時、江戸の殿様が大西の井ノ上代官のところへ来るのを待ち構え、苦しい年貢を直訴したのです。当時、土下座で殿様を迎える百姓が、直訴することは大変な罪でした。
喜七郎はその場で捕らえられ、牢に入れられましたが、牢番が酒を飲んで眠ってしまった際、これさいわい、と牢を抜け出したのでした。
また、ある時喜七郎は、新しく田を作って米の増産を計ろうと、水路を引いて(今の井出脇から上津の集会所あたりまで)田地を開く“工事願い”を代官所に申し出ました。
ところが、半年経っても梨のつぶてで、何の音沙汰もありません。しびれを切らした喜七郎は、許可がなければ「おれ一人叱られよう」と、自分の費用で村人を集めて工事を行いました。これが代官の耳に入り、彼は門外不出、蟄居閉門を命ぜられたのです。二、三日は辛抱していた喜七郎でしたが、いたたまれず、また村人を集めて工事を始めてしまいました。
代官は大変怒り、その晩不意に十五、六人の捕り手を差し出し、喜七郎の家を取り囲んでしまいました。代官としては、何回も言うことを聞かない彼を亡き者にしようとしたのです。
喜七郎は、家の者に別れを告げ、表門の方へ「ただいま出所します」と男衆に呼ばせておき、自分は家宝の一刀を腰に裏口より出て、とびついてきた捕り手を斬り倒し裏山へ逃げたのでした。
物語は、牢を抜け出したことと、家の裏口から逃げたことまでで、それ意外は(まま)はっきり分からないが、遅瀬の元谷家や尾山の三学院、果ては奈良の有名な円照寺(俗にいう“山村御殿”)へ辿り着き、匿われたといいます。その後、喜七郎は永い逃亡生活のため、病を得て尼様の厚い手当を受けたが、その甲斐もなく円照寺で亡くなったとか、また、村へ帰ってから亡くなったとか、そのあたりも定かではありません。
後になって、井ノ上代官は江戸へ戻され、川上代官を迎えますが、悪代官から、やさしい代官に代わって村人のよろこびは一入でした。
このころから、江戸時代の封建制度がたるんできて、やがて明治の世が明けるのです。
藤田家には「月菖道蕃居士(げっしょうどうばんこじ)」という喜七郎の墓が建てられていて、今も井出脇の用水路を見おろしています。
大字広代には、江戸役人から喜七郎を「不届者」とした書状が残されています。
(藤田實)(村の語りべ、p98~100)
喜七郎のお墓を探してみた
なんとも痛快な男だ、喜七郎!
語り継がれた物語だから、誇張も混じっているであろうが、それにしても男気たっぷり。
時代劇にでもなりそうなストーリーだ。
このような話が語り継がれている私達の土地は、近世の時代に、まさに旗本奥田家の領地であったことを表している。
そこで、気になるのは、彼が創ろうとした水路や、その水路を見渡す場所にあるとされるお墓のことである。
藤田實さんが記述してから、すでに30年近く経とうとしている。
そこで、「外伝その壱」でもお世話になった中西達成(みちしげ)さんに、今回も案内を請うた。
中西源太夫の末裔である彼は、また、地域の歴史研究家でもある。
その結果、西波多・上津地区の増福寺(下の写真①、中央奥の竹藪の左)にある藤田家のお墓に、「 月菖道蕃居士(げっしょうどうばんこじ) 」という銘が刻まれた墓石(下の写真③)を見つけることが出来た。
小高い丘にある増福寺が、「井出脇の用水路」を見渡せる場所であることは間違いない。
達成さんの案内がなければ、決して見つけることが出来なかったと思われます。
彼によると、「村の語りべ」発刊以降に、お墓が手狭になり、墓石の位置が移動され、かつての村の英雄のお墓も、分かりづらいところに移動されたようです。
中西家に遺されている源太夫の像(外伝その壱を参照)を安置する厨子は、藤田喜七郎が生前に寄進したものとされています。
中西達成さんといっしょに、筆者は中西源太夫と藤田喜七郎を偲ぶことができました。
在りし日の彼らに想いを寄せて、村の礎を築いてくれた先人たちに感謝の気持ちを忘れないでおこうと決心しました。
この場を借りて、達成さんに御礼申し上げます。