後藤又兵衛を討った男 中西源太夫のこと
今日の主人公は、中西源太夫という鉄砲名人。
山添村ガリ版物語の外伝その壱として、戦国時代に活躍した武士のお話しをします。
私達の山添村に、戦国時代末期に活躍した鉄砲名人がいたのです。
ガリ版物語の主人公は、ご存知、発明者の堀井耕造ですが、彼の祖先は、かつて山添村に赴任した代官・川上氏。
川上氏が使えた江戸幕臣(旗本)奥田三河守が、大阪夏の陣で活躍できたのも、中西源太夫の功績があってこそなのです。
大阪夏の陣で、後藤又兵衛を討ち取った男のことを、忘れておいでか!?
山添村にそんなGUYがいたんだ!
江戸幕府260年、近世の平和と安定の礎は、大阪夏の陣にあったのです。
すでに徳川の世へと趨勢は決まっていましたが、いまだに、大阪城には徳川に反旗を翻す大名や浪人たち(真田幸村や後藤又兵衛を含む)が、豊臣秀頼と淀君を擁して集結していました。それを看過できない徳川方は、慶長20年(1615年)雌雄を決する最後の戦を仕掛けたのです。それが夏の陣。
この戦いの経緯・詳細は省きますが、不落城とも言われた大阪城と、知将・真田幸村が率いる侍たちは善戦し、徳川勢もなかなか勝機を見いだせませんでした。ところが、古松山の戦において後藤又兵衛が討ち死にしたことで、夏の陣の形成は一気に徳川方に傾いて行きました。この戦いで、徳川の先鋒を務め大活躍したのが、我らの奥田三河守忠高の軍勢だったのです。
このあたりのことは、「ガリ版物語②」に詳しく述べたので、読んでみてください。
この外伝では、後藤又兵衛を討ち取った男・中西源太夫を紹介します。
まずは、記載されている山添村教育委員会発行「村の語りべ」を紹介します。
源太夫奮戦記 -上津― (「村の語りべ」より引用)
江戸時代、上津に中西源太夫という鉄砲の名人がいました。主君、奥田三河守の配下として、大阪夏の陣に出陣して、河内の国、片山の合戦に参加した時のことでありました。
敵将、後藤又兵衛は大軍をもって布陣。味方の軍はすでに浮足立って苦戦の時、源太夫は、敵の大将さえ討ち取れば、味方の勝利につながると思い、又兵衛を探しましたが混戦の中、なかなか見つかりません。
そのうち、雑兵の中央にただ一人、他の武者より見事な鎧兜を着けて采配をふるっていた武将があり、これが名高い後藤又兵衛だったのです。
この人は武芸すべてに勝れ、中でも槍を取ると天下に並ぶ者はいないという達人で、彼に槍をもたせていたら、片山の戦はどちらが勝ったかしれない、とまで言われたほどの人でした。
その又兵衛を見つけた源太夫は、この時とばかりに日頃手慣れた鉄砲に十匁玉を込め、神仏に祈りつつ引き金を引くと、立ち込める硝煙の向こうに、又兵衛の倒れる姿が見えました。奥田勢はこの時一斉に突入、敵味方入り混じりの戦いの中で、奥田三河守もまた、壮烈な討ち死にをされたのです。
のち、中西源太夫は徳川方に大変ほめられ、多くの恩賞にあずかったといいます。
中西家の家紋は、それ以来、“丸に的”になったと言われています。彼はまた、討ち取った敵の将兵の霊をとむらうために専念したとも聞きます。
今出も中西家では、村の放生会の日に、“中西の阿弥陀寺会式”を行い、多くの亡き人たちの供養をされています。
源太夫が晩年のこと、腕試しのため、自宅から数百㍍離れた街道の、岩の上に止まる雀を鉄砲で撃って、見事に目をつらぬいた話も有名です。
(藤田實)(山添村教育委員会発行・「村の語りべ」 p92~93)
中西家に伝わる源太夫像 -史上初公開-
先日、源太夫の子孫、中西達成(みちしげ)さんのご好意で、中西家に伝わる源太夫像を拝見することができました。
中西さんのお許しを得て、このブログで公開することになりました。
どうですか、400年を経て皆さまの前に現れた源太夫をご覧になっての感想は?
私達山添村には、興味深い歴史がたくさん埋もれています。
みんなで調べて、ひとつひとつ大事に遺していきましょう。
私は源太夫さんを前に、祖先が残したものを大事にしていくと誓いました。
討ち取った将兵たちを弔った、鉄砲名人の晩年の像であろう。
この像を安置する厨子は、江戸時代後期にこの地域で活躍する藤田喜七郎が寄進したとされている(外伝その弐を参照ください)。