江戸の旗本・奥田三河守のお話し
さて、第二話の主人公は、江戸時代の旗本・奥田三河守忠高である。
明治27年にガリ版(謄写版)を発明する堀井耕造の父親の話をする前に、山添村出身の地侍であり、戦国時代この地の出世頭である奥田氏の話をしなければならない。
大和高原に遺る山城跡
山添村を含む大和高原には、今も中世の山城の遺構が点在する。
いったいいくつあるだろうか? おそらく20箇所くらいはあるのではないだろうか? 戦国時代に村落を割拠した地侍の居城跡である。
奈良時代に大和高原にいくつもの杣があり、中央政権によって、平城京の造営や寺院の建立などの大事業に山林から木材を調達するために運営されていた。これらは、中世以降、次第に東大寺や興福寺の荘園となった。荘園を管理する荘官を地域の地侍が勤めるようになり、戦国時代には彼らは自分たちの集落を守る山城(砦)を作り大和高原を割拠した。
私達の住む山添村にも、かつて戦国の騒乱が存在した証である。
奥田氏の居城・畑城
そんな山添村内の城跡のなかでも、春日地区の城山(標高374.5m)に遺る畑城は、天文年間(1532年~1555年)の築城とされ、唯一石垣が遺された大きな規模を誇る(下写真)。これが、初代奥田三河守太郎左衛門忠高の居城であった。
山辺高等学校山添分校の背後にそびえる城山は、今では樹木に覆われ視界が失われているが、当時は山添村波多野地区一帯や伊賀方面を見渡すことができる要害だったはずだ。この居城にあって、戦国時代、奥田氏はめきめきと頭角を現していく。
故郷の風雲児・奥田忠高の出世物語
当初、奥田忠高は松永久秀に仕えて大和高原における一人の領袖として頭角を現す。
さらに、織田信長、豊臣秀吉に従い、遂に慶長5年(1600年)、徳川家康から出身地一体である波多野地区の八郷(春日、大西、上津、下津、広代、中ノ庄、中峰山、吉田)が安堵された。
現在の山添村には、30の大字(区)があるが、この八郷の名称はそのまま現在の大字名と一致する。
いよいよ、戦国の世にクライマックスが訪れる。
大阪夏の陣(慶長20年、1615年)、奥田氏は小松山の戦いにおいて徳川方の先鋒として出陣した。
悲しいことに息子(忠次)を失うものの、大阪方の後藤又兵衛(真田幸村の盟友)を討ち取る功績を挙げた。この後藤又兵衛軍の崩壊が大阪城を落城させる誘因となる大きな節目の戦いであった。
余談であるが、後藤又兵衛を討った奥田氏の家来の詳細は、外伝として別掲してあるのでご覧ください。
玉手山(現・柏原市)の奥田忠次墓碑。私が訪ねた時も、花が手向けられていた。近くには後藤又兵衛の墓碑もある。
江戸時代を通じて、奥田家のこの功績は称えられた。
上方に派遣される幕閣は赴任前には、玉手山(現・柏原市)の奥田忠次墓碑(上の写真)に詣でて、駐在任期中の精勤を誓ったと言われている。江戸幕府の安定の元を築くために殉職した奥田忠次は、彼らにとってヒーローだったと考えられる。
その後明治維新まで二千八百石の旗本として江戸にあった奥田家にとって、どれほど誉れ高いことであっだろう。
故郷山添村に、かつて戦国時代を駆け抜け、旗本にまで出世した侍がいたなんて!
現代の私にも、奥田氏は故郷のヒーローだよ。
知らなかった、子供の頃、こんな侍の話を聞かせてもらっていたら、、、
歴史小説や大河ドラマを通して戦国武将の活躍にわくわくしたものだが、田畑と山林だけの故郷は小説にもTVにも決して登場しない退屈な地域だった。
しかし、実はけっしてそんなことはなかったのだ。
どこの故郷にも、必ず人々の生きた証があり、歴史がある。
奥田忠高の居城・畑城跡の整備保全を!
奥田氏の居城だった畑城跡の荒廃は痛ましい。
誰も訪れない城山は、戦後植林された樹木が、間伐されずに放置されているため、やせ細っている。その結果、容易に倒れる。それでいて、高く成長しているから、視界も悪いだけでなく、昼間も薄暗いので人々の脚はますます遠のく。
それどころか、石垣付近にあったとされる石棺が、今は見当たらない。心ない者が持ち去ったとも言われている。
大和高原に存在する山城跡のどれもが、同じような状況になっている。
地元で奥田氏を正しく評価して、歴史を語り継ぐためにも、城山一帯を整備することは我々の責務ではないだろうか?
整備することによって、若い人たちが故郷の歴史を知り誇りを持つことに繋がると期待できる。
城山は、歴史好き・山城好きには、格好のウォーキングコースにもなるはずだ。
❤まだまだ話は続く。
ここまで読んでくださっても、堀井耕造との関連は出てこない!
大丈夫?!
奥田氏がいなければ、堀井耕造だって生まれてこなかったのだから、これくらいの回り道は許してください。
まあ、怪訝に思わず、第三話をお待ちください。 次はいよいよ、江戸時代末に奥田氏の陣屋に赴任する代官・川上直右衛門の登場です。