山添村のガリ版復興活動と提案「ガリ版ロード」!
シリーズ完結編!
ようやく始まった山添村のガリ版活動と
ガリ版のルーツとして相応しい歴史ウォークができる「ガリ版ロード」の提案。
ガリ版文化130年の灯火を守る人たち
昭和60年代以降、ワープロやコピー機などのOA機器の普及で、謄写版・ガリ版はすっかり廃れてしまった。堀井謄写堂も倒産した。
ガリ版は、誰の手にも届かない場所にしか存在せず、何かの機会にそれを目にすると、
私達世代には昔懐かしい古いもの、
知らない若い世代には、溢れるマニュアル感がむしろ新鮮なものになってしまった。
そんななかで、ガリ版文化の継承に努める人たちの活動も続いている。
堀井家の建物や敷地、ガリ版に関連する様々な物品は東近江市に寄贈され、 平成10年(1998年)、 ガリ版文化の記録継承を目的とした『ガリ版伝承館』が開館した。
実は、ガリ版印刷の独特の雰囲気を利用した作品を作る芸術家、ガリ版の歴史を記録し研究者、ガリ版機器の保管や展示を続けている愛好家は全国に存在する。
彼らの多くは、このガリ版伝承館が本部になっている「新ガリ版ネットワーク」を通じて知ることが出来る。
始まった山添村の「ガリ版活動」
平成27年(2015年)、堀井耕造の顕彰碑文を読み山添村とガリ版との関係を明らかにしたその年の10月、私達は、研修旅行としてガリ版伝承館を訪れた。 川上家七代当主川上直宏氏や、耕造の顕彰碑文を解読した福永昭夫氏も同行してくださった。最初、伝承館や新ガリ版ネットワークの方々は、山添村の存在さえ認識されていなかったが、この旅行訪問やその後の交流によって、ようやく山添村の川上家こそが、堀井耕造の父祖の故郷であることを認識してくださるようになった。
大袈裟かもしれないが、振り返ってみれば、耕造とその一族が山添村大西に来訪した昭和3年(1928年)からほぼ90年目に実現した両者の邂逅ともいえる「出来事」だった。彼が碑文の中で訴えたこと;自分たちのことを忘れないで、後世に正しく認識されたい、という願いが叶った瞬間だったと私は捉えている。
両者の交流は、その後も続いている。
◆たとえば、平成29年(2017年)11月には、大西において、ガリ版の研究者・愛好家が参加して、歴史研究会【ガリ版の来た径】も開催された。
・ガリ版の歴史(志村章子さん)
・近江商人としての堀井氏(七里源一さん)
お二人の研究家の講演が行われた。東近江のガリ版伝承館からも担当者の方々が参加してくださり、お互いの交換訪問が達成された。
◆さらに、地域活動の一環として、ガリ版に親しんでもらうためのイベントを定期的に開催している。たとえば、子供たちがガリ版によるカレンダーを作る講習会、山添村ふるさと祭(毎年11月3日に開催される山添村を挙げての農業祭)においても、ガリ版体験コーナーを毎年設けている。
ありがたいことに、地域の情報誌や奈良TV番組などでもガリ版・山添村として取り上げてもらえる機会にも恵まれ、少しずつ認知度は向上しているように感じる。(写真は、講習会を報道する地域情報誌YOU、および、ふれあい祭で制作された年賀状・クリスマスカード)。
しかし、まだまだ力不足は否めない。
とくにマンパワー不足のために、定期的なイベントさえ危ぶまれているくらいだ。
上記のような山添村でのガリ版普及活動に協力してくださる人を募っているので、興味ある方の参加を歓迎します。
この「やんばいのぉ山添村」のお問い合わせフォームをご利用いただきましたら、筆者とすぐコンタクトが取れます。
夢想「ガリ版のふるさとのふるさとロード」整備計画
謄写版(ガリ版)は、明治時代の最も重要な発明品の一つである。これからも、ガリ版がもたらした意義と文化は、伝承されなければならない。従来、東近江市岡本の堀井家や、新治郎・耕造親子が興した東京の堀井謄写堂の存在は、多くの記録が遺され人々の関心も高かった。前述のようにガリ版伝承館がその機能を果たしている。
一方、山添村における奥田家・川上家の歴史、ガリ版に繋がる史実や建物を、このまま世に知らしめることもなく埋もれさせてしまうことはできない。これらの整備保全に努め全国に発信することは、私達住民の大事な使命である。また、これらを特徴ある観光資源として活用することは、私たちの権利でもあり、その才覚と努力が求められている。
そこで、ここまで述べてきた春日・大西にまたがる建造物や関係するものを点線で結んでみた。
・戦国時代の奥田氏の畑城(波多城)
・江戸時代の領民の生活を今も彷彿させる里山風景
・菩提寺・不動院から川上代官屋敷跡
川上家の顕彰碑など点在するものを歩けば、中世から明治に至る日本の歴史の側面に触れることが出来る絶好のウォーキングルートである。私はこれを、「ガリ版のふるさとのふるさとロード」と名付けている。ガリ版発明と時期を同じく開業した野村医院旧診療所、通称オールドクリニック(山添村初の有形登録文化財)も近接するので、明治期の躍動を知ることもできる。
最近、大和高原に点在する山城に人々の関心が高まっている。この畑城(波多城)は、石垣が遺る唯一の規模を誇るものの、他の山林と同様に手入れが行き届かずに荒れ放題になっている。戦後植林された森林が城の間近に迫っているが、間伐もされないために台風や大雨のたびに倒木し遺構の荒廃に拍車をかけている。まずは、地主や地区の人たちと相談し、畑城とその周辺を整備する必要がある。さもなければ、大和高原で最大規模を誇るこの山城が無残にも荒廃することになる。
昭和3年に堀井耕造の援助のもとに建てられた川上邸(上記地図には未掲載)は、ユニークな構造を持つ。袴や着物での生活を前提として設計されているのだ。現在空き家になっているが、所有者である川上直宏氏からは、地域興しのために活用するのであれば、協力を惜しまないと約束を取り付けている。
この家屋をリノベーションして、畑城をはじめとする大和高原の山城に関する資料展示、奥田家・川上家の歴史やガリ版との関係を示す資料展示、ガリ版アーティストのための「芸術の場」、ガリ版講習会の会場、食事や休憩施設としても利用するという考えは、いかがだろうか?
代官屋敷跡の整備も必要である。おそらく、多くの事物が埋没されたままになっていると考えられるので、新しい発見も期待される。
畑城や代官屋敷跡の地権者が、このような考えや計画に関心をもってもらえることを願っている。
さらに、周辺の茶畑や稲田の保全にも努める必要がある。
「ガリ版のふるさとのふるさとロード」と名付けるからには、田園風景が必須なのである。なぜなら、ガリ版発明の動機は、堀井新治郎が近代農法を農民に教える教材を簡便に印刷したいというところから始まっているからである。
大西に住む私達は、この地区の歴史的意義を認識して、自らが稲田や茶畑、竹林、水路、家屋などを含めた景観の保全を意識していきたい。それが、自らの地域の価値を高め村興しに繋がると信じている。
山添村は、「ガリ版の聖地・第三候補」か?
❤ここまで、「山添村のガリ版物語」第一話から第五話まで、お付き合いくださり、ありがとうございました。
最初に提案した『ガリ版の聖地、第三候補』に、私達山添村は、立候補できるでしょうか?
まだまだ万人の賛意を得られるとは、思ってはおりません。
このように書き記して、立候補に相応しい活動をこれから続けていきたい意思表示ですので、どうか応援の程よろしくお願い申し上げます。
🍀また、別の日に、皆様に尋ねることがあると思います。
山添村は、第三候補にしていただけますか?と。
その時は、どうかよろしくお願いします(校了 令和元年・2019年12月11日)