本居春庭(日本語文法学の先駆者)について
本居宣長の長男・春庭は、江戸時代に日本語文法の基礎を築いた人です。
父と同じく伊勢は松阪で活躍した人ですが、若いうちから目を患い、惜しくも失明してしまいます。そのため父の跡を継ぐことは出来ませんでしたが、むしろ失明してから、彼は彼独自の学問を究めていきました。それが、日本語文法学でした。
視力を亡くした春庭が学問を修めるには、彼の妹や弟たちの暖かい助けが必要でした。
広報やまぞえ7月号にも
令和3年(2021年)7月1日発刊の「広報やまぞえ」7月号にも、この話題が掲載されて気になる人があると思うので、この記事を書きました。
広報の記事は、とても大事なことを教えてくれています。
古民家再生も、村内では行われるようになってきましたが、古い家屋を取り壊す時、あるいは再生するとき、貴重な文化財が失われてしまう可能性があるのです。特に昔々に表された文章、つまり、紙類は簡単に捨てられたり焼かれたりしてしまいがちですが、その中に実は多くの人が捜し求めている情報があったりするのです(とは言っても、多くは謝金の証書だったりするわけですが)。
歴史秘話 本居春庭が山添村切幡に逗留
父・宣長は、春庭の眼疾治療を願って、全国の有名な眼科医に依頼したといいます。
江戸時代にも、「眼科」という領域は専門化が進み、実は既に眼科専門医が存在しました。
しかし、残念ながら、一向に回復する兆しはなく、彼の病気は悪化していきました。
最後に、宣長は、山添村の切幡の眼科医に行くように指示したといいます。
ここに紹介する動画は、春庭がその切幡に来たことを語ってくださった吉田悦之先生(本居宣長記念館名誉館長)の講話です。
約90分の講話を、前・中・後編に分けてあるので、ゆっくりご覧いただけたら幸いです。
特に、山添村にいたる旅路や逗留中に、弟妹と交わした数々の歌を紹介くださったことは、誠に注目されます。この歌集ともいうべき短歌については、後日稿を改め紹介予定です。
吉田悦之先生 御講演の動画集
解説(ローカルな話題などを、一部注釈します)
①0分20秒 「波多城について・・・」 この収録の前に波多城のことを話題にしていたのです。波多城(畑城)は、山添村春日地区に遺る山城。奥田忠高(後に旗本に出世)の居城。当サイトのガリ版物語②に詳しく紹介しています。
【後編の解説】
冒頭から、春庭が、文法学に目覚めていく経緯、学問が花咲いていく経緯が語られていく。
15分前後では、「八街(やちまた)」を著した足立巻一氏のこと、かれが作った番組「真珠の小箱」についても触れる。
19分25秒~ 質疑応答
最終で示した「野村伸介」は、「信介」の誤り。