ガリ版発明家・堀井耕造と山添村との交流90年史
ガリ版の発明家・堀井耕造(二代目新治郎、元紀)が、昭和3年(1928年)に父の故郷を訪ねてから90年が経過した。
その交流の源は、耕造の父祖への強い想いにあった。
忘れ去られた大発明家の想いを、今、明らかにする。
堀井新治郎・耕造親子と謄写版(ガリ版)印刷機
明治16年(1883年)、幼い耕造(8歳)の養父(継父)として迎えられたのが、堀井新治郎(第38代堀井家当主、別名 初代堀井新治郎、あるいは元紀)である。
彼が簡便な印刷機の開発に興味があった理由は、すでに第一話で述べた。
堀井家当主となった彼は、その開発に着手した。成長しすでに三井物産に勤務していた新治郎は、退社して、新しい父の新しい仕事(夢)に協力した。
発明に至る苦労話は、本稿では割愛する。
明治27年(1884年)、二人の苦労が実り、ついに堀井式謄写版が完成した。その後、この印刷道具は、公官庁、学校、軍隊、企業はもちろん、全国津々浦々で使われるようになり、堀井家の事業は大成功を収めた。
昭和50年代半ばまで、どれだけたくさんの印刷物がガリ版によって刷られたのか、天文学的な数になろう。私達が親しみを込めて「ガリ版」と呼んだ謄写版発明とその後の発展の経緯である。
昭和3年(1928年)耕造が山添村大西を訪問
大正4年(1915年)、新治郎は、体調不良のため一線を退き、元紀と改名(62歳)、耕造が新治郎(二代目)を襲名(43歳)した。(初代新治郎・仁紀は、昭和7年1932年、76歳で没している)
昭和3年(1928年)、53歳。堀井謄写堂株式会社のすべての事業を引き継いで堀井家第39代当主となった耕造(あるいは仁紀)は、実父・彦四郎(市松)の故郷山添村(旧波多野村)に、凱旋した。
一族郎党を引き連れ、東近江から国鉄にて伊賀上野に至り、そこから乗用車を仕立てて山添村に辿り着いたであろう。まさに、立身出世の立役者が故郷に錦を飾るというのは、このようなことをさす。当時の大西地区は賑わいを呈したに違いない。
この滞在中、大西の共同墓地と春日不動院に、川上家第6代当主・一夫氏と共同で、川上家と堀井家、そして謄写版事業の沿革を記した「新塋域碑(新しい墓地の碑)」と銘打たれた大きなこの顕彰碑を建てた。
盛大に行われた顕彰碑序幕法要式の際に撮られた、堀井・川上両家の関係者集合写真を見ると、昭和3年(今から90年以上昔)の農村風景という印象を受けない。維新からすでに60年を経過しているとはいえ、我が国の農山村は貧しかったはずだが、ここに写る人々は、皆がこざっぱりした装いであり、農山村の住民の様相とは一線を画しているように思う。
まだ江戸時代生まれの人々がたくさん生きていた時代であり、おそらく「元士族」という誇りや、元の支配者と領民という関係は、この時代にも、私達が想像できないレベルで存在していたと推察する。
耕造は、この写真の中ではおそらく最高齢のはずだが、出席者の中で唯一洋服を纏っている。その姿は、威風堂々として自信にあふれている。そんなところに、会社を一流企業に育て活躍する彼の性格や生活スタイルが見て取れる。
耕造が石碑に託した言葉
全文が六百文字以上の漢文で記された顕彰碑の内容は、私の友人・福永昭氏(津市在住の歴史研究家)が平成27年に解読してくださった。
子供の頃から何と書いてあるのか、読めずじまいだった碑文の意味がようやく解けて、どれほど喜んだか。この場を借りて、福永氏に御礼を申し上げます。
彼の研究成果は、既に廃刊したが、文芸同人誌「方圓」の最終号(第36号p110~p119、平成29年・2017年、4月刊)に掲載された。今回は、碑文部分だけ(p118&p119)をここに転載する。
私が最も印象深い箇所は、その最後部にある。
「川上家の人々は大西を離れてしまい陣屋敷も荒廃しつつある。このままでは、川上家の足跡や事績は消え去り忘れ去られてしまうので、この碑を建てて後世の人々が正しく認識できるよう切に望む」(要約)と。
写真の耕造は威風堂々としているが、実父の故郷に想いを寄せて、父祖の実家の行く末を案じ、永く自分たちの足跡をこの地に遺したいと強く願っていたのである。
堀井耕造と大西地区の交流、忘れ去られた歴史
その後、私達大西地区と堀井家の交流(付き合い)は、戦前まである程度、続いたと推察される。
たとえば、
・戦前は堀井家から大西の各戸に堀井謄写堂のカレンダーが届けられていたという地区の長老の話(現在も、岡本のガリ版伝承館に展示されているカレンダーと類似のものかもしれない)(下右の写真)、
・とても立派なガリ版器具が堀井家から寄贈され、昭和50年頃まで公民館で大事に使われ保管されていたという話、
・旧波多野村の村長を務めた旧家には、耕造からの年賀状が今も遺されていること(下左の写真)、
などなど。
しかし、彼の願いは長く続かなかったようだ。
多くの住民にとっても、当の川上家にとっても、その後の不景気や第二次世界大戦の状況では、生きていくことに精一杯であり、それどころではなかっただろう。
さらに、昭和37年(1962年)、耕造が87歳で亡くなると、この地区と堀井家との付き合いは、急速に途絶えてしまったのではないだろうか。
私が中学生のころ(昭和40年代後半)、すでに、山添村大西地区において、川上家と堀井家の関係について正確に説明できる者はすでにいなかった。第一話で紹介したように、祖父母や父母の世代から「川上さんの娘さんが、かつて、ガリ版の社長の家に嫁に行ったので、昭和の始めに川上さんは、羽振りが良くなった」というような話を聞かされるのが関の山だったのである。
それから、ガリ版という文化自体が消滅したので、人々の記憶から、さらに堀井家という存在は遠のいていった(堀井謄写堂は、昭和62年1987年に謄写版の生産を中止した)。
それでも石碑は遺り、90年を経て私達に語り掛けている
それでも、顕彰碑はこの地に遺った。
川上家の人たちによって維持管理されていたおかげで、碑文の状態はすこぶる良好だったから、福永昭氏に、私は失礼ながら、スマホで撮影した画像を電子メールで送りつけ解読を依頼できたほどだ。
平成27年(2015年)、堀井耕造が未来に向かって託した「後世の人々が正しく認識することを冀う(こい願う)」という言葉に接した私は、それ以来、ガリ版と山添村の関係を、私達の世代で途切れさせることがないよう努力しようと決意した。
川上家とは、何の縁もないが、同じ村に生まれた者として、これは放っておけないよ(実は、私は直宏氏の姉の尚子さんに小学校まで育ててもらっていた経緯がある。父母の仕事が忙しくて、尚子さんは、アルバイト代わりに私と弟の世話をして下さった)。
❤また、ガリ版に強い郷愁を感じ、村興しの一助にもなるのではないかと希望を抱くようになった。
いかがですか?
◆第一話冒頭で問いかけましたが、山添村はガリ版のふるさとの”ふるさと”として「第三の聖地」に立候補する資格があると理解していただけましたでしょうか?
え? まだ、だめ?
新参者は、もっと、慎ましやかに、地道にガリ版文化の継承に努めろと!?
*山添村における、最近のガリ版文化活動は、次の第五話で紹介したいと思います。
お楽しみに!