大西の陣屋に赴任した川上代官と家族の話
第三話の中心は、江戸時代の後半に、大西に代官として赴任した川上直右衛門とその家族のことである。
川上家は、 累代奥田家「御用人」
旗本奥田家の家臣川上氏は、江戸時代後期(おそらく弘化2年、1845年頃)に代官として山添村大西陣屋(代官屋敷)に赴任した。
川上家の始祖は、名張市小波田の川上家からの分家で、文政年間に江戸に出登したようである。第一話で紹介した堀井新治郎の建てた顕彰碑には、川上家は累代奥田家の「御用人」と記されている。
前任代官が農民を苦しめ悪評高かったのに対し、川上代官は領民の信認が厚かったと言われている。
一説によると、あまりの悪代官に業を煮やした領民が交代を直訴した結果、奥田氏が派遣したのが、川上直右衛門だと言われている。
城山の西北の大西区に奥田氏の陣屋があったが、今でも、その陣屋跡を「川上陣屋」とか「川上屋敷」と呼ぶ年輩者があるくらいだ。 その陣屋跡は、現在前方の竹藪によって遮られているが、しっかりした石垣などの遺構が遺されている。
第二話で紹介した領主・奥田家が興した城山は、代官屋敷から目と鼻の先にそびえている。そんな城山を毎日拝して、川上代官はどんな気持ちで忠勤していたのだろうか。
短期間で交代する代官が多かったなかで、川上代官は、領民に請われて10年間留まることになったという。そのうえ、彼は家族を連れて赴任したので、長男・市松がその陣屋で嘉永6年(1853年)に出生した。市松(後の彦四郎)つまり、堀井耕造の実父の誕生である。
なお、顕彰碑には、市松の姉ナヲ(奈尾)は江戸に生まれたと記されているから、直右衛門とともに連れてこられたのであろう。(家系図参照)。別項に譲るが、ナヲと考えられる人物を見たという大西の年配者の話がある(第四話に紹介の予定)。
10年の任期を終えて江戸に戻る予定であったが、安政の大地震(安政2年、1855年)が発生し遂に後継者が来ないため、そのまま川上家は大西に留まったという。
維新後も、川上家はこの地に留まり、次第に大西区民として生きていくことになる。
代官としてこの地を統治した武家が、農業以外になんら産業の乏しい山村に「平民」として生きることは大変なことだったと考える。
平成15年頃まで大西に在住されていた川上直宏氏(現在奈良市内在住)は、明治維新時に代官だった川上直衛門から数えて4代目にあたる(家系図参照)。このブログ執筆にあたり、多くの資料を提供してくださった。この場を借りて御礼を申し上げます。
なお、春日の不動院(高野山真言宗中央山龍厳寺)は、奥田家と川上家の菩提寺である。
川上市松(後の堀井彦四郎)のこと
さて、大西に出生した川上市松は、9歳のときすなわち文久2年(1862年)に東近江市岡本の堀井家の入養子となった。
「武家の一粒種が商家に入養子!」
唐突で奇異に聞こえるのも当然である。。
実は、岡本をはじめ近江の川守や川上地区一帯も旗本奥田氏の領地であった。他に、奥田家は下野国(窪田村・神明村・渋谷村)、上野国(矢場村)などを拝領していた。家禄2800石は、これらすべての領地の年貢の合算である。
前述(第一話)のように岡本宿の堀井家は、代々醸造業を営む豪商であったから、奥田家にとって領内において貴重な現金収入が期待できる商家だったにちがいない。おそらく後継者問題が生じた時、 領袖の強い意向がこの養子縁組を指揮したであろうことは、容易に想像できる。
文久2年といえば、ペリーの来航以来、世の中が大変混乱していた時期。領主奥田氏は、武家よりも商家に将来性を見出したが故の裁定だったかもしれない。いずれにせよ、市松は聡明な才にあふれる子供だったことはまちがいない。さもなければ、白羽の矢が立つことは考えられない。
❤こうして川上市松は、堀井彦四郎として第二の人生を始めた。
明治5年(1872年)に秀子(ヒデともいう)と結婚し、3年後に長男・耕造(のちの二代・新治郎、仁紀)をもうけた。
ところが、明治13年(1880年)、短い人生を終えた(享年28歳)。私は死因を知らない。
明治時代の平均寿命は40~45歳だったとはいえ、あまりに早世である。
大和の農村に武家の長男として出生し、9歳で近江商人の入り養子となり、明治維新の激動を生きた彼の特異な人生は、どのようなものだったのだろう?
おそらく苦労の連続だったのではないか。彼の苦労が偲ばれる。
江戸時代に山添村に出生した武士は、彼だけ?
◆ここに、一つ自らに宿題を課しておく。
川上市松は、江戸時代に山添村に出生した唯一の武士だったのかもしれない。
他にそんな存在はあるのか?
誰か、こんなことをこれから調べてみてくださる人が現れますように。
*さあ、第四話は、いよいよ堀井耕造たちの活躍を、山添村からの視点で記します。
どうかご期待ください。