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やまぞえ絆リレー2020
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やんばいのぉ山添村
ええ天気やなぁ山添村
『やんばいのぉ』とは、山添弁で『いい天気だね』という意味です。
『やんばいのぉ山添村』は、関西弁では『ええ天気やなぁ山添村』になります!
『やまぞえ絆リレー2020』2021年5月9日に延期となりました。

~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り㉙ 桐山 戸隠神社~

目次

桐山 ~ 石を切り出す山「切山」 ~

「桐山」と書いて「きりやま」と読みます。
山添村の西部にある集落で、県道奈良名張線(奈良街道)と県道月ヶ瀬針線の交差点の大橋より北側の布目ダム沿いの県道月ヶ瀬針線の西側に集落があります。

この地域には、オキミ、和田、オクボの3つの集落がありましたが、昭和57年から始まった布目ダム建設によって、布目川のほとりにあった和田集落は、家屋を移転されました。
またオキミには、布目ダムの副ダムが建設され、B&G財団の山添海洋センターが整備され、ボートやヨット、カヌーが体験できる施設になっています。
周辺には、東山公民館や東山診療所、役場出張所、農村広場等があります。

和田地域からは、近畿最古の縄文土器や集落跡が出土し、和田遺跡として学界の貴重な資料になっていますが、この和田遺跡は、布目ダム建設に伴い湖底に水没しています。

この地域は、中世の切山庄で、少なくとも永仁4年(1296年)以前は東大寺領でしたが、貞和3年(1347年)には、興福寺一条院支配の寺領であったと言われています。
江戸時代は、隣接地域の峰寺と同じく、御番衆領(幕府と密接に関係して番を編成して宿直警固にあたるところ)、郡山藩、幕府領、川越藩を経て郡山藩領となりました。
オキミ垣内には城山があったとされ、地域では城屋敷と呼ばれています。

桐山地区の石仏

地域には、石仏に関するいわれが色々と残っています。
城山の殿様の仕置場で夫婦岩が切り付けられ、永禄9年(1566年)ころからその冥福を祈り、「切付地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
また、石地蔵を切り付けてある、「烏ヶ淵の石地蔵」と呼ばれる岩があります。これは、豊臣秀吉が大阪城を築く際、城の石垣に全国から巨石、大石を集めた際に大阪まで運ぶ労役を免れるように地蔵さんを彫ったと伝えられています。

その他にも数多くの石仏や摩崖仏がありましたが、今はダム湖底に沈むのを避けて、道路端に移転・安置されています。

この地域は石仏や摩崖仏など石に切り出された(彫られた)ことから、「切山」と呼ばれるようになり、現在の地名になったと考えられます。

戸隠神社 ~ 深い大橋川から引きあげた大湯釜が文化財 ~

桐山・室津(次回説明)・北野山(奈良市北野山町)の3地域は切山宮を郷社として同じ氏神(九頭明神、明治以降戸隠明神)を祭っていますが、湯釜のことから紛争が起きて、その湯釜を大橋川に投げ込んだことから、たちまち「釜ぶち」と呼ばれる淵になり、その淵から取り出したのが「切山庄九頭大明神湯釜」として、地域では神聖な祭器として珍蔵されています。

神社蔵の湯釜(永正11年=1514年)は村指定有形民俗文化財です。

祭神は手力男命です。

*この内容は、山添村史などを参考に作成しました。

さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り㉚ 室津 戸隠神社」を紹介します。

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この記事を書いた人

こせがれのアバター こせがれ 兼業農家のご主人

山添生まれ、山添育ち。農村の暮らしを通して、食や農、自然や地形、歴史や文化、スポーツや子育て、健康や長寿‥などなど、様々なことに関心が芽生えて来た、小せがれです。
「足元より、少し前を向いて歩きたい♪ どうせ一度の人生だから」をモットーに実践しているつもりです。
これからもよろしくお願いしますm(._.)m

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