

広瀬 ~ 川の瀬広きところ ~
「広瀬」と書いて「ひろせ」と読みます。
山添村の東端に位置し、東に名張川が流れ、川を隔てて三重県伊賀市、名張市に接する県境の大字で、集落は丘陵地に南を向いていて、絶景は温泉郷の様です。
集落にあった尼寺の西方寺過去帳によれば、「川の瀬広き故、村の名将となす」とあり、これが地名のいわれと考えられます。



集落の名張川付近から大川遺跡で発見された縄文土器と等しい出土品が発見されており、数千年前から先人が住居していたことがわかります。伊賀方面から名張川を渡って集落の広畑付近に定住したものと考えられ、この付近には、井戸道、小屋畑、屋敷内、阿弥陀堂跡(堂屋敷)などの地名や、「こめんどの殿様」という言葉が残っています。
集落にあった西方寺は、伊賀の九品(くほん)寺の末寺であり、再建されたのが清和天皇の貞観3年(861年)頃とあることから集落の起源は、奈良時代にさかのぼると考えられます。
奈良時代は「広瀬の牧」と呼ばれ、近世は幕府領の奥田氏支城から津幡の藤堂高虎領となりました。
集落には、城山(じょやま)とか藤塚(不事塚)と呼ばれている大きい塚が存在しています。城山には、坊主山と呼ばれる壕をもってめぐらした跡があり、土豪の居城であったと思われます。藤塚は、葛藤の生い茂った古塚ですが、無数の無縁石塔婆や五輪塔の残欠などが多数転がっており、室町、戦国時代のものと言われています。
また、古くから、「広瀬の渡」として知られ、名張川の対岸に耕地を持つ村人は、増水の時必死で橋板を守ったそうです。以後、橋は昭和4年につり橋に整備され、昭和54年に近代橋に改修されました(上の写真)。
西部に県道奈良名張線が走り、集落の真ん中を県道山添~桔梗が丘線が通り、名張市へ通勤する兼業農家が多いです。
集落の真ん中の名張川沿いには、多目的使用の五月川センターが、北部の名張川沿いには、特別養護老人ホーム「せせらぎ園」があります。
明治7年から昭和55年まで広瀬小学校がありましたが、春日小学校に統合され、今は、やまぞえ小学校となっています。その広瀬小学校跡は「ブックカフェひろせ」という地域活動の拠点になり、料理教室や最近では竹林体験など、人々の憩いの場になっています。
尼寺であった西方寺跡には、快慶作の阿弥陀如来仏(国の重要文化財)があり、拝観できます。
気候風土に恵まれたこの地域は、古くから米どころとして収穫も多く、昔は特殊な副業として竹細工(俗称:いつかけ、しょうけと言うザル)は特産品になっていたそうです。
熊野神社 ~ 熊野の遠い神様にお参りした気持ち ~



・本社は島根県八束郡熊野村に鎮座する熊野神社で、熊野の遠い神様にお参りした気持ちになります。
・付近には、冨士講なる記念碑もあり、付近にある西迎寺の五輪塔は、正中2年(1325年)で山添村指定文化財です。
・祭神は、伊邪那美尊

(山添村内には、櫻坂氏の絵馬がいくつかあります)




*この内容は、山添村史などを参考に作成しました。
さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り㉓ 鵜山 八柱神社」を紹介します。