

遅瀬 ~ 緩やかに遅く流れる川の瀬 ~
「遅瀬」と書いて「おそせ」と読みます。
この大字は、山添村の北部で、名張川を隔てて北は三重県伊賀市、西は奈良市月ヶ瀬に接し、名阪国道の五月橋ICがあります。
隣接する三重県へは、名張川を渡る必要があり、昔は、「遅瀬の渡」として船頭が旅人や牛馬を渡していましたが、昭和3年に三重県への繋がる県道として五月橋がかけられました。その五月橋も老朽化が進み、最近改修工事が行われ、令和2年2月に新しい橋に生まれ変わりました。

大川遺跡の発見で、名張川沿いには古代人が住んでいたことがわかり、名張川と遅瀬川の合流するこの遅瀬地域にもおそらく古代から人が住んでいたと推測されます。
この地域は、遅瀬(祓戸(はらいど)または河内(こうち)とも呼ばれていた)川の最下流で、名張川への合流地点に集落があります。川の流れが緩やかに遅くなり開けている瀬に地域があることから、遅瀬と呼ばれるようになったと言われています。
江戸時代は、上流に旗本庄田藩領の遅瀬、下流に津藩領の獺瀬(うそせ)の2人の領主がいる状態の集落(相給村)で、文字(遅瀬と獺瀬)によって区分されていました。明治8年に2つの領主が合併した時、2つの呼び名を書いた紙を入れた茶碗の振り上げで遅瀬と決まったそうです。
この地域は、古くは、土地の豪士、福弘重右エ門、梶村六右衛門の2人が居城を構えていた(大和郷史記より)と言われ、城山、城の越し、鉄火場、初矢の丘に向かって初矢の射初めをしたという伝説も伝えられているそうです。
地域には、室町期の背光五輪や五輪塔などの石碑も残っており、中世にも相当栄えていたと考えられ、その中でも13体の仏を自然石に丹念に陽刻された十三摩崖仏は村指定文化財となっています。



遅瀬地域は他の集落に比べ農地は少なく、副業で藤箕(ふじみ)の製造販売が古くから行われていました。藤箕は、藤のツルを水にさらして叩いて柔らかな繊維質にして竹の割りヒゴに目編みして造られます。地域にある氏神の南方の谷を根打谷(ねうちだに)といい、水田の巨石を根打石と称していること、つまり、藤(の根)を叩いた(打った)ことが推察され、このことからも、歴史は古いと考えられます。
藤箕は藤箕と書いてフジミと読み、トウミとは読みません。唐箕と書くトウミは中国から伝わったもので、藤箕も唐箕も用途は穀物の選別ですが、藤箕は藤のツルと竹などを使うものに対して、唐箕は竹細工的なもので、唐箕は穀物の選別以外には使われませんが藤箕は一時的な容器や運搬具としても使われていたと言われています。
藤箕の箕作りの技術は、国の重要無形民俗文化財に指定されている地域もあるそうです。(例えば、富山県氷見市など)
集落の中央の丘陵、景勝の場所に中南寺があり、明治の始めには、ここに遅瀬小学校(後に春日小学校に合併、その後やまぞえ小学校となる)もありました。
その他、地域には、山辺衛生センターの他、歯科医院、建設会社、ペンション、自動車修理工場、新聞店舗など多様な施設があります。
また、明治の末頃には、地域の有志で、歌舞伎芝居の一座(遅瀬一座)が生まれ周辺地域を上演して回ったとも言われていました。

八柱神社 ~ 高台の神鈴 村じゅうにひびく ~
遅瀬八柱神社をはじめ、中峯山・鵜山・片平・岩屋の各神社は、太古からとうとうと流れる名張川(五月川)に沿っているので、五社の間には密接不離な由縁があろうといわれています。
高台にある神社で、神鈴は、村じゅうにひびきわたります。


祭神は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命

*この内容は、山添村史などを参考に作成しました。
さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り⑱ 中峯山 神波多神社」を紹介します。