

菅生 ~ 菅(すげ)が自生する土地 ~
「菅生」と書いて「すごう」と読みます。
「菅」は植物の菅(すげ)、「生」は所を意味することから、菅(すげ)が生する土地という意味で「菅生」と呼ばれるようになったそうです。
この大字は、山添村の中心部で、南東部は馬尻山を境に入り込んでいる三重県領に接し、西に上津ダムや名阪国道があり、中央を国道25号線が通っています。
集落は西または南東の傾斜地にあり、日当たりが良いものの土地が峻険なため、高い石垣の家が多く、建築にジンド柱(吉野式建築:平地が少ないため、斜面に谷を背にして家屋を建て、表から見るとどれも平屋か二階建てですが、家の裏は急な崖のため、家屋は下方へ二階、三階となっている)が多いことが地域の特徴です。
この地域は、古くから製茶、養蚕、つるし柿が盛んで、広大な家屋が多いと言われています。

戦国時代に菅生但馬(すごうたじま)という豪族が居城を構えていたと「大和郷土記」に記載されており、城址天守山には城跡があり、「城ヶ尾(じょうがお)」「城のうしろ」などの地名も残っているそうです。
城の柵内を「大垣内(おげって)または(おおかいと)」と呼び、そこから順に集落が発展したことが、「後出(うしろで)」「峯出(みねで)」「谷出(たんで)」「かじや出」と言う小字に、すべての垣内名の後ろに「出」がついている地名で推測することができます。この大垣内の畑からは、縄文土器の破片も発見されており、古代から人が住んでいたと考えられています。
地域の信仰心は篤く、講社なども多く、かつては、伊勢講、愛宕講、日待講、祭りや初老、還暦の祝い事などがありました。地域には巨大な板状の岩が連なる愛宕社(あたごしゃ)があり、愛宕講が続けられていると言われています。
また、地域には芸事を好む風習が残っており、江戸時代から盛んであった伊勢講で披露したとされる「お陰踊り(おかげおどり)」は県の文化財に指定されています。また、同じく江戸時代から伝わる能楽は「春楽社(しゅんがくしゃ)」として、後に述べる春日にある春日神社の例祭に奉納され、村の文化財に指定されています。
十二社神社 ~ 祭神さんが十二柱もおられる ~

本社の熊野坐神(くまのにます)社は崇神天皇時代の創始と伝えられており、熊野信仰が流行った時代(1000年前後)に熊野神を彦土神として祀ったと言われています。
熊野信仰は890年に始まり、1300年代に及ぶ長期間盛んであったようで、「伊勢ヘ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月詣り」と現在でもうたわれているそうです。
祭神は、熊野夫美神、速玉神、熊野食津御子神、天照大神、天忍穂耳尊瓊々、岐尊、彦火火出見尊(火神)、鵜茅葺不合尊、迦具土神、埴山姫神、弥都波能売神(水神)、稚産霊神


(十二社神社とは、国道25号線を挟んで、反対側にある)

*この内容は、山添村史などを参考に作成しました。
さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り⑮ 上津 春日神社」を紹介します。