

岩屋 ~ 岩・石が豊富で岩谷・石屋にちなんだ地名 ~
「岩屋」と書いて「いわや」と読みます。
この大字は、山添村東部に位置し、北・東は三重県名張市と接しています。特に北側は、三重県(名張市葛尾)が極端に細長く大字勝原に向かって入り込んでいます。このことは、「山添村神社巡り③勝原 八柱神社」でも述べています。
大字は、標高200~250mで、真ん中を名張川に注ぐ笠間川が流れ、左岸に岩屋断層崖、右岸に青葉山地に囲まれ、左岸の岩屋断層崖のふもとの傾斜地に集落が広がっています。
山と川に囲まれたこの地域は、笠間川⇒名張川⇒木津川と流れることから、古くから奈良の都(例えば春日大社の造営の用材など)の杣地(木材供給場所)として栄えていました。


磨製石斧(ませいせきふ)が発見され、山添村で数少ない古墳の「平岩古墳」や毛原廃寺の瓦などを焼いたと言われる「岩屋瓦窯跡」なども見つかっています。
平安期には、石屋と呼ばれ、応和2年(962年)・康保元年(964年)9月25日付け大和国都祁郷刀祢等解(とねちげ)案には大和・伊賀両国にわたる広瀬牧の四室として「南限石屋升少野石村笠間河」と記されています。その他、古くから、岩谷や岩屋とも呼ばれていました。
断層崖の地形や石斧が見つかったことから岩・石が豊富であった地域と推察され、そのことからも、岩谷や石屋などとも呼ばれ、今の地名になったのではとも言われています。
また、隣接の大字勝原とは標高差が200~250mあり、「矢下(やおろ)し七曲がり」と呼ばれる峠があります。これは、筒井順慶が伊賀攻め(後に八柱神社の説明で詳細に述べます)をする際に、勝原から峠を越えて岩屋に向かったとの話もあり、その際、谷に矢を射かけて進んだことから、峠を「矢下ろし(やおろし)」と呼び、地名になっているそうです。
大字の真ん中を流れる笠間川沿いは水田が開け、山添村の中でも気候が比較的温暖であったため、多いときは約40%の水田で稲と麦(裸麦、小麦、ビール麦を栽培していた時もあったとのこと)などの2毛作が行われ、傾斜地では茶園の他、岩屋断層崖や青葉山周辺の豊富な森林や竹林を活かした林業や箕や籠の竹器製造に従事する人も多かったそうです。 農業の他に、造り酒屋(現在は廃業)、自動車業やガソリンスタンド、青葉山のゴルフ場など多様です。


八柱神社 ~ 不動の滝音 槍立ての椋の木 歴史こもる ~
天正8年(1580年)4月、伊賀の乱に、織田信長から命ぜられた大和の領主筒井順慶の軍勢は、当八柱神社に祈願をし、戦勝しました。以来順慶は天正9年、同じく十年の二回にわたって神殿寄進の儀を行いました。
この戦勝祈願の際、近くにある清らかな不動の滝で身を清め戦士一同の槍や武具を八柱神社の前の椋の木に立てかけたとされ、今でも「槍立の椋」「鎧立の椋」と呼ぶ椋の木が社前にあります。
不動の滝のそばには、伊賀攻めに従軍して戦死した岩屋郷士の90回忌の供養として建てられた一基の石灯籠もあります。
大字では、今でも神社などに灯明を絶やさず、毎日勤務の宮守さんを選び管理と祈りに励まれています。
そのような背景から、八柱神社及び周辺の不動の滝音、槍立ての椋の木には歴史をひしひしと感じることができます。
・祭神は、神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神



*この内容は、山添村史などを参考に作成しました。
さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り⑬ 大西 八王子神社・稲荷神社」を紹介します。