巡り巡る社のはじまり
今、全国各地で、御朱印集めなど神社巡りがブームです。山添村にも各集落などに特徴のある神社とそれに伴う祭事などが数多く残っています。そこで、プログを始めるにあたり、私たちの住む地域、山添村を知っていただくために、山添村各地の神社巡りから、山添村(農山村)各地の特徴と新たな魅力を紹介していきたいと思います。
私たちの住む地域、山添村の成行き
私たちの住む地域は、奈良の北東部に位置し、名張川(木津川)が流れ、三重県に隣接する標高400m前後の高原地帯です。
縄文遺跡も多数あり、我が地域は、縄文時代から人が住んでいました。奈良時代には、奈良の都に近いことから、名張川(木津川)や陸路を通じて木材や食料を供給し、奈良の都の生活、食を支えていた地域の1つでした。このころから、田畑の耕作と共に杣人として山仕事で生活していたとも言われています。
鎌倉時代以降になると貴族や社寺の私領(荘園)が広がり、この地を巡り、興福寺・東大寺・西大寺・藤原氏が支配の争奪を繰り返したそうです。今の集落(大字)の仕組み(範囲)はこのころ形作られ、当時は、〇〇庄、▲▲庄などと呼ばれ、年貢を納めたり武役についていたと言われています。各集落の各神社やその周辺にある石灯籠などの文化財は1200~1300年代のものも多いとことがこのころの地域の繁栄を物語っているのかもしれません。
江戸期に入ると、諸藩に組み入れられ、その統治下に入りますが、集落(大字)は、ほぼ変わっていません。当時は、各集落(村)が村役人の庄屋・年寄・百姓代の3役で運営されていましたが、廃藩置県後、明治5年には村役人が、戸長、副戸長に改められ、集落の自治体は存続しました。
明治に入ると、当地域は、はじめ、奈良県・津県・郡山県に分属し、明治4年に奈良県になり、以降堺県・大阪府を経て、明治20年に現在の奈良県に定着しました。
その後、明治22年に市町村制公布により、それそれの集落(大字)が地形・地勢や謂れ、当時の住民の思い等から3つの村(豊原村、波多野村、東山村)に合併しました。
そして、昭和30年代の市町村合併促進により、昭和31年に3つの村が合併して現在の山添村が誕生しました。

農ある暮らし、田舎暮らしと共に育んできた祭事や社
太古から人々が住み、農山村ならではの重要な役割を果たし、繁栄をしてきた私たちの地域。みんなで協力して時には喜び、時には悲しみ集い生きること。これが集落の始まりです。
やがてその生活の中に、五穀豊穣や健康長寿、地域安全などの祈願や行事が行われるようになりました。この中心になってきた1つが、地域に残る神社です。
農山村各地で地域の暮らしと共に守り継がれてきた社。社には、そこに暮らす人々のそれぞれの時代のいろいろな想いを感じることができるのではないでしょうか。
そこで、私たちの各地域を知るには、各地域に残る神社を中心に地勢や風情を紹介することも分かりやすいのではと考え、“~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り”として、各地域(集落)を紹介していたいと思いつきました。
各地域を紹介する前に、山添村の神社の成行きを少しご紹介します。
鎌倉時代頃に今の集落(大字)の仕組み(範囲)が形作られると、各集落に神社や石灯篭が造られ、この神社などを中心に祭りごとなどの祭事が行われてきました。
明治元年に神仏分離を令する太政官布達が出され分離されるまでは、神仏は混淆し、神仏一体の信仰がなされていたそうです。その経緯もあり、境内の堂の呼び名や伝統祭事・行事の呼び名やオコナイの内容、神社のそばに仏様がおられる集落も多いなど、その混淆していた時代の形跡が今も何らかの形として残っていることもあると思います。
明治41年には全国の神社の合祀が政令にて推進されましたが、山添村では合祀はほとんどされず、大半が各集落(大字)ごとに特徴ある神社として残りました。
このよう歴史背景、歴史の流れの中で、各集落では特徴ある神社や祭事などの農村文化などが今もなお伝承されてきています。
山添村の各神社も、鳥居⛩や銘板の違い、優しい顔・険しい顔・丸い顔・四角顔などの様々な表情をしている狛犬の姿、厳かな風情などなど‥、巡り巡る楽しみがいっぱいです。
さて、次回は、「~巡り巡る農村の社~ 山添村神社巡り② 地域の特徴編」をお届けします。
